【GWT】【K暁】春の末


 小さなお守り袋を覗く。

 中にはもう何も無い。ただ甘い香りだけが僅かに鼻をくすぐった。


(それなぁに)

 右膝の上にのったメジロが首を傾げる。

(梅の匂いがする)

 左膝の上にのったメジロが囀る。

「お守りだよ。もうなくなっちゃったけどね」

 暁人は答えた。この二羽は番だ。つい先程まで、頭上の梢で仲良く木の実を食んでいた。

 空きコマにふと小腹が空いて、暁人は大学構内のベンチで軽食をつまんでいた。風はまだ少し冷たいが、日差しは温かい。動画を見つつ、もくもくとサンドイッチを頬張っていたところ、突然にこの二羽が膝に降りてきたのだ。

 ちちちと囀る二羽の声を聞いてみれば、お喋りがしたいのだという。霊能力を持つ暁人は動物の声を聞くことができる。それを感じ取って寄ってきたらしい。ちょうど暁人も暇していたのだ。…人目を気にする必要はあるが、こんなに可愛い小鳥とのお喋りなら断る理由もない。

 メジロの番は、もうじき居を移すと語った。随分暖かくなってきたから、涼しい林地に戻るのだという。あっという間に春が終わるね、そう返した暁人は、ふと小さなお守りのことを思い出した。

 ここひと月ほど、ずっと愛用のボディバッグに忍ばせていたお守りだ。先週あたりまで、中には小さな梅の枝が収まっていた。

 ――やるよ。持っとけ。

 二回りも年上の相棒から、ぞんざいに投げ渡されたお守りだった。

 そんな軽々しい扱いに反して、お守りは確かに暁人に福をもたらした。雨に降られない、渋滞に捕まらない、探し物がすぐに見つかる、料理や勉学が上手くいく、ちょうどよく好みのものに出会う、眠りの質が良い、体の調子もなんだか良い。

 ひとつひとつは本当に細やかだ。あまりに細やかでただの偶然とも思えてしまうが、生活は良いことと悪いことのバランスで成り立っているのだ。悪いことがひとつもない、は間違いなくお守りの加護といえるだろう。

 梅の枝には蕾がひとつあった。蕾は暁人の懐でゆっくりと開き、盛りを迎えた。そして一日また一日と花弁を散らして、結実はせず枝だけとなった。大事にしていたのに、残った枝もある朝に幻のように消えてしまった。

 枝が消えても、不思議なほど香りは長く残っている。仕舞ってしまうのがなんだかもったいなくて、暁人はお守りを身に付けたままでいた。もうお守りとしての効力は消えているだろうが、それでもなんだか、持っていたくて。

 二羽のメジロはちょんちょんと袋に近寄り、小さな頭を覗き込ませた。そして揃ってひょっと飛びのいた。

「どうしたの?」

 暁人の問いかけにくりくりと首を回してから、メジロは言った。

(ちょっといやな匂いがする)

(うん、ちょっといや)

「い、嫌?」

 意外な言葉に若干ショックを受ける暁人をよそに、メジロはもう袋に興味を失くして囀り合っていた。


 就寝前、枕元にお守り袋を置く。

 KKにもらってから、なんとなくずっとこうしている。良い香りがするからか、これがああると安眠できるのだ。

 梅の枝に花がついていた間は、寝入る前に取り出して眺めたりもしていた。日に日に花が開いていく様は、見ていて楽しかった。盛りを迎え、一枚ずつ散っていく時は少しさみしかったが、幸をくれてありがとうと優しい気持ちにもなった。

 細やかな吉事も、積もれば山となる。このひと月、暁人は絶好調だった。

 梅の枝について、相棒、KKからはろくな説明もなかった。尋ねてみても生返事ばかりだ。だからこの枝がどこから来たのか、なぜお守りとなったのか、暁人は知らない。心当たりがあるとすれば、お守りを渡される少し前にKKと梅の話をしたこと。それだけだ。

 けれど今思えば、あの会話は、お守りを渡すための前置きだったように思う。お守り袋に入っていた枝は、まさに依頼人の庭に植わっていたという梅ではないか。暁人はそこまで推察していた。

 KKは横暴で頑固で独断専行しがちな聞き分けのない大人だが、さすがに人んちの木の枝を勝手に折りはしない。だからどういう経緯でKKがあの小さな枝を入手し、そしてどうして暁人に渡したのか、ここからはもうわからない。想像するしかない。

 それにしても、小さな枝だけとなって袋に収められていた梅が、どうして瑞々しく開花できたのか。不思議に思っていたが、寝入り端によくよく眺めてみて気付いた。灯りを落とした暗い部屋の中で、枝からきらきらと、緑、橙、青のきらめきが落ちたのだ。

 すっかり見慣れた、エーテルの輝きだった。ちょうど暁人が火と水の力をもらったあの水晶玉のように、枝そのものにエーテルが込められていたのだ。霊能力者としてはひよっこの暁人には、どういった術を使ったのか皆目見当がつかない。その細工をしたのは、間違いなく渡した本人で、師匠であるKKだ。

 おかげで、狭い袋の中でも梅には水気が満ち、温かさが与えられ、清涼な空気が保たれていた。まるで小さな小さな春だ。

 KKは言っていた。植物の声を聞けたら、と。この花とお喋りをできたら、何を語っただろう。梅の花を眺めながら、毎晩のように暁人はうとうと夢想した。どんな場所に、どんな風に根付いて育って、そしてどういったいきさつで今ここにいるのか。

 ついでに、わざわざ枯れないように細工をして、袋まで用意した相棒兼師匠の、その時の様子も教えてほしいなと思った。

 梅の花は散り、枝ももう無い。それでも枕元にお守り袋を置いて眠りにつく。

 なんてことはない、やっぱり大事なのだ。あのKKがくれたものだ。どんなものであれ、とまでは言えないが、嬉しかったに決まっている。こんな幸と福の結晶みたいなものを、ぽいっと投げてよこすなんて。鳥にもらったとか適当なことばかり言って、なんにも教えてくれやしない。

 いつしか瞼が落ちていた。暁人の意識は眠りに沈んでいく。

 なぁ、教えてよ。なんで僕にこれをくれたの?



 夢の中で、暁人は梅の花を見た。

 どこかの庭にある、一本の梅の木。白い花を枝いっぱいに咲かせて、柔かい風に吹かれている。周囲の景色は朧気で、眼前の梅だけが鮮明に見える。

 この梅の夢を、暁人はこのひと月、ずっと見続けている。

 目覚めた時にはもう覚えていない。夢で梅を見たという、その印象だけが残っている。それも朝の支度をしているうちに消え、日中は完全に忘れている。一日を過ごして夜を迎え、再び眠りについた時、ようやく思い出すのだ。

 起きたら忘れる夢の中で、暁人はただ心穏やかにいる。いつか吹いた春の風を感じながら、ひたすら優しいものに包まれている。

 梅は感謝している。幸福を願う気持ちが、暁人の見る夢に満ちている。暁人には身に覚えがない。だからやはりこの梅は、KKが語っていた梅なのだ。梅が感謝している相手は、本当は贈り主であるKKなのだ。

 答え合わせをしたいところだが、梅はものを言わない。夢の中でも、やはり植物の声は聞けないようだ。以前、石の声を聞くという女性がいたから、それなら植物もと実は少し期待していたのだが。暁人が感じ取れるのは、せいぜい動物と、同じ人間の思念だけだ。

 そのうちこの夢は消え去るだろう。加護を与えてくれた枝は消え、春はもうじき終わるのだから。この梅も、現実ではもうとっくに葉を茂らせているはずだ。

 肺腑に風を吸い込むと、仄かに違う匂いが鼻腔を擽った。

 ほろ苦い匂い。いかに微かでも、梅香の中ではよく目立つ。

 暁人は振り向いた。

 そして笑い、彼へ声をかける。何と言ったかは定かでない。ここは夢の中で、現れる彼も生身ではない。いつもするような、他愛もない会話だったかもしれない。

 彼も笑う。彼が好む煙草の匂いが風に混じる。大体の生き物は煙を嫌う。メジロが嫌がったのも仕方ない。ほんの微かな匂いだから、起きている時の暁人には気付けない。あんなに小さなお守り袋に込められた、石英一粒分くらいの微細な煙。

 夢には、現実では形を持たないものが現れる。色とか香りとか、誰かの気持ちとか。

 はるか昔の時代は、相手が自分を想うからこそ夢に現れると解釈されていたそうだ。暁人たちのようなエーテルの適合者に限っては、それもあながち間違いではない。エーテルは思念や感情に反応する物質である。エーテルに結びついた感情が、そのままの意味で相手に伝わることもあり得る。意識的か、無意識かにかかわらず。

 KKの気持ちは、本人と同じように煙草の匂いがする。煙たいけども、悪くはない。

 空気の中に、星のようにきらめくものがある。緑、橙、青。きれいで妖しいエーテルの輝き。ふっと溶けるように消えたかと思えば、また春風が巻き起こる。

 ここは彼が、KKがくれた小さな春の中だ。


 ――見せてやれてよかったよ。


 夢の中のKKはそう言う。面映ゆそうに、手足をぶらつかせたりなんかして。

 夢の中の暁人は理解している。KKが夢に現れる理由を。彼がお守りに込めた気持ちを。

 だから同じように笑うのだ。

 正直、あんまりにも照れ臭くて、嬉しくて。



懸魚

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