【GWT】【K暁】葉桜の挨拶

 数日前、ふと立ち寄った公園で葉桜を見た。

 それからだ。桜がついてくるようになったのは。

「あ、また…」

 寝床から起き上がると、シーツの上にほろほろと零れるものがある。やや萎れた白い花弁と、まだ小さく瑞々しい若葉だ。寝ぼけまなこを擦りつつ、暁人はそれらを摘み上げる。

 じっと見据えてみても、ただの花びらと葉っぱに違いない。種も仕掛けも、ましてや呪いなんてものも込められていない。就寝前に窓は閉めたし、妹の麻里のいたずらである筈もない。

 とりあえず何もせずに、寝室を出て朝の支度をする。一時間ほどしてからまた寝室を覗いてみると、散らばっていた花弁と葉は忽然と消えていた。


 ここ数日、頻繁に起きている現象だ。

 起床時はほぼ必ず。それから、家を出て移動中に開いたボディバックの中に。大学に着いて、腰を落ち着けた机の上に。レジの前で、スマホを出そうと手を入れたポケットの中に。

 片手で一握りするくらいの、桜の花弁と若葉が現れるのだ。

 意識を逸らしている間に消えてしまうので、幻視のひとつかとはじめは思った。だが確かに触れるし、何より暁人の友人にも視認できている。

 ある日の講義後など、椅子にかけていたアウターを羽織ろうとしたら、ひらひらと爽やかに花弁が散ったのだ。『手品?』『フレッシュマンのCMで見たわコレ』『顔の良いやつってほんとに花が舞うんだな…』と散々いじられた。

 さて、これはどういったものか。

 質の悪い怪異でないことはわかる。人為的とも思われない。

 やっぱりあの桜の仕業かな、と曖昧に検討をつけつつ、はらはら頭上から降ってきた花弁と若葉を受け止める。周囲に桜の木はない。ちなみにだが。

 本日は曇天。風はぬるい。外出にはやや不適。

 ついてないな、と肩を竦め、植え込みの側に腰を下ろす。東京都渋谷区は歴史ある歌川商店街。大きな鳥居を見下ろす階段の上で、暁人はいま待ち合わせ中だ。時間は決まっていない。各々の用事が終わり次第、ということで、先に到着した暁人は気長に待つつもりでいる。だが雨が降り出すようなら、手近な店に入った方がいいかもしれない。

 考えていると、にゃん、と足元で愛らしい声がした。

 視線を落とせば、一匹のぶち猫が行儀よくお座りをして、暁人を見上げていた。にゃあんと再度鳴くので、微笑みつつこっそりと左手から霊視の滴を落とす。暁人の霊力がぶち猫に伝わり、鳴き声が確かな言葉となって耳に届く。

(お兄さん、おやつをくださいな)

「おやつかぁ。悪いけど、僕いま何も持ってないんだ。お店の人なら何かくれるんじゃない?」

(強請ってみたけどね。さっきお昼ご飯をあげたばかりだからダメって言って、くれないんだよ)

「…それを聞いちゃったら、僕もあげる訳にはいかないよ」

(けちんぼ)

 暁人は苦笑し、ぶち猫は露骨にがっかりする。ぶち猫をよく見てみれば、尻尾の先が少し妙だ。蛇の舌のように、二又に分かれ始めている。

「……猫又?」

(ああ、この尻尾のことだろう。なりかけてるんだよ、多分ね。普通のニンゲンにはわからないみたいだけど)

「多分って。そんな感じなの?」

(なろうと思ってなるんじゃないよ。時期がきたからなるんだよ。こう見えて、お兄さんより長く生きてるはずさ)

 そんなに年嵩の猫だったとは。毛並みにも動きにも老いの陰りはなく、まだ若い猫に見える。猫が猫又になる経過など考えたこともなかったが、彼らには九つ命があるとも言うから、何度も生まれては老いを繰り返して霊力を蓄えていくのだろうか。

 それにしてもなりかけって珍しいんじゃ、としげしげ観察する暁人の脚に、ぶち猫は猫らしく体を擦り寄せる。

(だから、ね。年上を敬って、おやつをくれてもいいんじゃないかい)

「それはだめ」

 きっぱり断言する。ぶち猫は暁人の脚に寄りかかったまま項垂れた。そのまるい頭にも、桜の花弁と若葉が降る。ぶち猫が顔を上げると、鼻先に花びらがのった。

(おや、これは。風情があるね)

「でしょ?少し前からくっついてきてるんだ」

(へえ、珍しいね。桜に懐かれるニンゲンなんて。園丁なのかい?)

「違うけど、でもたしかに縁はあったね」

 まだそう遠くはない、夏の夜の話だ。

 『いつ』という時間さえも定かでないような奇怪な夜があった。

 不気味な霧に覆われ、魑魅魍魎が跋扈していたその夜に、暁人は季節外れの桜を咲かせた。桜にこびりついて生命活動を狂わせていた、死と血の穢れを祓ったのだ。だから咲かせたというよりは、正常な状態に戻したという方が正しい。

 先日立ち寄った公園に植わっていたのがちょうどその桜だ。花の盛りはもう過ぎて、残った花と青々とした若葉とで、桜はまだらになっていた。風が吹くたび、残った桜がひらひらと散り、春の気配を脱ぎ捨てていた。

 そんな桜の根元では、庭師がせっせと作業をしていた。背を丸めて汗を拭い、熱心に桜の世話をしていた。亡くなった前任の庭師も、あの様子なら安心して見守っているだろう。死んでも桜を案じていたくらいだから。

「ねえ。これって、結局なんなのかな?」

 花弁と葉を拾い上げぶち猫に問うてみる。だがぶち猫は訝しげに目を細めただけだった。

(見ての通りじゃないか。他の何に見えるっていうんだい)

「いや、そうなんだけど」

 そういうことが聞きたかったわけじゃ。質問の仕方を考えあぐねる暁人に、ぶち猫はのんびり欠伸した。

(ニンゲンはほんとうにばかだねぇ。あれこれ知りたがるくせに、当たり前のこともわからないんだって)

「…おやつ買ってあげるっていったら?」

 ごろにゃん、と途端に甘い声が上がった。

 暁人に買ってもらったささみバーを腹に収め、ご機嫌なぶち猫はそれからひとしきりお喋りに付き合ってくれた。

 桜のことも教えてくれたし、それ以外の有益な情報もいろいろと提供してくれた。暁人とその仲間たちにとっては、人間のみならず猫の持つ情報だって重要なのだ。

(猫又になったら、どうしようかねぇ)

 ふと空いた間に、ぶち猫はそう零した。

「どうしようかって、決めてないの?」

(決めるも何も。いざ尾が分かれたらどうなるか、何が変わるのか変わらないのか、あたしもわからないんだもの)

 猫又は猫だが、猫は猫又でない。猫の世界と猫又の世界はまた違う。自分は猫又になるらしいとわかっても、今までただの猫だったのだ。

「不安?」

(そうだよ。どれだけ歳を食っても、新しいことはやっぱり、不安になるよ)

「そっか…」

 暁人は少し考え、ぶち猫に提案した。商店街の近くには、知った顔の猫又が何匹かいた筈だ。ダメもとで紹介してみるから、どうかと。ぶち猫は目をいっぱいに開いて、いかにも驚いた顔をした。

(猫又の知り合いがいるの?ほんとうに珍しいニンゲンだ)

「ちょっとね」

 待ち人は、もうしばらくは来る気配が無さそうだ。案内するよと暁人が腰を上げると、ぶち猫は嬉しそうににゃんと鳴いた。



 今日に点数をつけるなら、九十五点。この一か月では最高得点だ。

 自宅でシャワーを浴びながら、KKは右手を摩る。知らず、鼻歌が零れていた。

 まず天気と気温は微妙。仕事はいつも通りくそったれだった。いざ昼飯を食おうと箸を持った瞬間に凛子から電話がきた。午後の仕事も、待ってましたとばかりにマレビトの群れがわんさか出てきた。怪我は無いがイライラしたし疲れた。煙草を吸おうと思ったら切らしていた。ここまでは零点。

 仕事上がりだ。暁人と待ち合わせをして、一緒に蕎麦を食べた。その後は軽く買い物をして別れて、帰宅した。この時点でプラス九十五点。

 我ながら可笑しい。惚れた相手と数日ぶりに顔を合わせて、デート、そうデートをしただけで、簡単に最高の日になる。

 浴室から出て、体を拭く。脱衣所の鏡に映る自分の顔は、ごく普通の中年の顔だ。年相応に皺があって、…少し白髪も増えたか。ため息が出る。

 自分はいま、二回りも年下の若人に懸想している。

 少し前に自覚した恋情は、痛みを伴いつつもKKの胸の内に落ち着いた。だがいくら魂で繋がり合った相手とはいえ、冷静に考えればなんて年甲斐もなく、みっともない恋慕だろうか。相棒として、師として、先達として、真っ当に寄り添ってやれないことが不甲斐無い。

 暁人と自分とは対等な立場だ。だが年上として導き、背を押してやりたいとも思っている。暁人の前で、この恋情は不要であるとKKは断じた。つまりは黙して語らず。知らぬが花。あの世まで持っていって彼岸花か仏花となすのだ。

 寝支度に入りながら、今日一日を噛み締める。ここしばらく互いの都合が合わなかった。数日ぶりに会った暁人は、葉桜を連れていた。

 桜。あの夜、一心同体の二人が見た桜だ。

 桜は暁人に恩がある。幻のような花弁と若葉は、親愛と感謝の現れだ。公園を訪れた恩人に、桜は挨拶をした。それがそよ風のような加護となって、暁人の霊力に溶け込んでいる。

 暁人がアウターを羽織ろうとすると、CMのモデルのように花弁と若葉が散るので思わず笑ってしまった。本人は憮然としていたが、こんなものがきちんと様になる奴なんて他にいない。全く惚れた欲目なんかなくたって、文句なしの良い男だ。縁起物だし楽しめばいい、と言っておいた。

 寝る前に一服、夜風を浴びる。このまま、楽しい恋の上澄みだけを戯れのように啜っていれたらいい。そうしていつか消えてくれるなら重畳だ。消えてくれないなら、――まぁ、この程度の秘密、今更なんてことない。

 布団をかぶるまでずっと、気付けば暁人のことばかり。恋ってこんなんだったっけか、と青臭く苦々しい気持ちを噛み殺し、目を閉じた。



 KKは眠りながら、葉桜を見た。

 あの公園だ。暁人の体に宿り、共にマレビトを蹴散らし、桜の穢れを祓った公園。真昼のようで辺りは明るいが、景色は判然としない。

 KKはベンチに腰かけ、はらはらと花弁を落とすまだらな桜を眺めている。もうじき花は落ち切って、青い葉へと移り変わるだろう。また次の季節がくる。

 ふと右手になにかが触れた。

 見れば隣には暁人がいて、同じように葉桜を眺めていた。KKの視線に気づくと、暁人はこちらを見てはにかんだ。じんわりと嬉しくなる。

 これは明晰夢だ。エーテルの適合者は、此岸と彼岸、虚構と現実、そういった相反するものの間を渡ることができる。夢とうつつもまた然り。ほとんど覚醒しているような状態で夢をみることが、KKにはままあった。

 夢の中の暁人は、KKの右手をきゅっと握った。そうだ。今日の別れ際、こうやって右手を握られたのだ。ほんの一瞬ではあったが。

『…あのさ、普通に心配くらいさせてよ』

 KKがマレビトの群れと対峙したと知った暁人は、こう言った。真面目な顔で、KKが知る誰より素直な言葉で。それに当たり障りのない返事をしたら、徐に右手を取られた。ぎゅっと強く握られて、すぐに離される。なんだと問うてもはぐらかされて、結局よくわからなかった。

 暁人は『無茶したら後に響くよ、歳だろ』と可愛くないことを言って、それから少しいたずらっぽく笑っていた。

 ぬるい穏やかさに満ちている。散る桜はやはり美しい。メジロの番が囀り合い、羽ばたいていく。隣には淡い恋心を抱く相手がいて、KKに微笑みかけ、手を握ってくれている。

 ふと、胸の奥を冷たさが刺した。

 こんなに優しくて、穏やかで、甘ったるいのは居心地が悪い。こんなところにいるべきではない。いていいとは思えない。

 勢いに任せて手を解き、荒々しく立ち上がる。自分の夢である筈なのに、あまりに場違いだ。自分にこんな安寧は似合わない。自分の中にこんな空間があるのだとしたら、腑抜けになってしまう前に捨て去るべきだ。

 警官となってはや二十年。若かりし頃の夢と希望はとうに消え、身を浸してきた世界は泥濘のようにKKの身を重く汚した。今のKKは、死に近い暗いところにいる。

 これは自身の夢だ。拒絶すればまもなく消えるだろう。KKは明るい景色に背を向けた。どこか、ここより暗いところへ行くために。

 ――KK。

 ぐっ、と再び右手が取られた。

 いつもKKを宥めたり、嗜めたりする暁人の声だ。

 自分の夢なのにどうして邪魔をするのか。イライラしながら振り返ったKKは、息を呑んだ。

 ――KK。

 強く見据える鳶色の目。意志を宿した眉と頬、口元。真剣な顔。

 違う。KKは気づいた。これは自身の夢ではない。KKの記憶や意識から作り出された虚構ではない。


 暁人が、いや、あの時握られた手から流れ込んだ、暁人のエーテルが見せる夢だ。


 KKの手をしっかと捉えたまま、暁人は立ち上がる。真っ直ぐな眼差しに、凝り固まった心が揺れる。思わず泣き言を言いたくなった。

 勘弁してくれ。これ以上、惚れ込みたくないんだ。この歳になって、本気の恋はしんどいんだよ。

 眼前の暁人は本物ではない。だが偽物でもない。たった一瞬のうちに、エーテルと共にKKに流れ込んだ暁人の感情が、夢の中で形を得て立っている。想い人の一部には違いない。向かい合い、視線を交わしただけで、惹かれてやまない。そんな自分の心に、KKはうっすらと絶望さえ過った。

 悍ましいもの。忌むべきもの。悪しきもの。穢れたもの。理不尽なもの。そんなものは怖くない。強くあればいい。負けないように、打ち伏せられるように、ただ強くあればいい。

 優しいもの。穏やかなもの。愛すべきもの。大事なもの。そういったものこそ恐ろしい。KKには寄り添い、守り、育むことができなかった。いつだって悪い影響ばかり与えてしまって、側にいない方がずっとマシだった。

 暁人。大事な相棒。唯一無二の理解者で、弟子で、そして、薄汚い恋慕を抱く相手。頼むから、脈があるかもなんて思わせないでほしい。自分一人で完結させて、まだ引き返せる浅瀬にいさせてほしい。

 矛盾する恋心が、意固地な懊悩がどろりと凝る。やがてそれらは黒い靄となって、KKの体から重く立ち上った。まるで質の悪い悪霊のようだ。だが怨念に似るほど強く拘泥しないと、この夢を跳ね除けるなどできそうもないのだ。

 奥歯を噛み締めて、手を振り払おうとしたKKの顔に、ぶわりと風が吹きつけた。真正面からぶっ叩くような強い風だ。白い花弁と若葉が、頬を掠め流れ去る。立ち上りかけていた黒い靄は、あっという間に霧散してしまった。


 ――KK。


 髪も服ももみくちゃにされて唖然とするKKに、暁人の気持ちが語りかける。表情を緩めて、少しいたずらっぽく。


 ――おふくわけだよ。


 ああ。

 KKは脱力した。項垂れるKKの腕に、暁人の手が添えられる。柔らかく若葉の匂いのする風が二人を包む。こんなものを見せられては、聞かされては、感じさせられては、もうどうしようもない。

 温かく優しい、当たり前だ、この夢は暁人の気持ちそのものだ。どうりで見た覚えもない葉桜が現れるわけだ。はじめから気づいとけよと自分を詰る。

 縁起物だと自分が伝えたから、暁人は。

 胸の中で、薫る風が渦を巻くようだ。かき乱されてむず痒くてしかたがない。恋とはこんな風だったか。四十路越えの男がほんとうに、みっともなくて、笑えてくる。

 そっとKKを抱えている暁人の腕を抱き返す。身を寄せると、暁人は少し驚きながらも、いつもの柔和な顔で首を傾げた。

 暁人の一部ではある。だが暁人本人ではない。そしてこれは夢だ。

 だから景気づけにこれくらい、いいだろうと、唇を重ねた。



 まだ寒い春の初め頃、暁人に梅の枝をやったことがあった。

 理由は単純だ。縁起物だったからだ。ささやかながらも福をもたらすものだったから、適当なお守り袋に入れて渡した。暁人があれをどうしているか、特に聞いてはいない。

 深い行動ではなかった。ただ、少しでも暁人に良い事があったらいいと、ただそれだけ。

 意識が浮上する。瞼を開く。

 目の前に猫の顔があった。

 自分でも信じられないくらい情けない悲鳴が喉から弾け、掛け布団をひっくり返して後ずさる。

(なにさ、やかましい)

 跳ね飛ばされた布団をひょいと避け、猫はのんびり欠伸した。ばくばくと割れんばかりの早鐘を打つ心臓を押さえ、猫を凝視する。なんでここに猫が。どこから、というか、何故、心臓に悪すぎる、タイミングも最悪だし自宅への闖入者としても最悪だ。

 白と黒のぶち猫だ。一見するとまだ若い猫のようだが、霊視してみればたんまりと霊力を蓄えているのがわかった。かなり古い猫だ。現に尻尾が。

「……猫又、の、なりたてか、ご挨拶じゃねぇか」

 どうにか息を整えて本気の苦情を申し立てる。ぶち猫の尻尾は、まだ細くひょろひょろとしているが、確かに二又だった。猫は嬉しそうに二本の尻尾を揺らめかせる。

(そうだよ。夜更け頃に割れたんだ。昨日までなりかけだったけどね、めでたいだろう)

「ああめでたいめでたい、祝ってやるからさっさと帰ってくれ」

(愛想のない男だね、あの子とは大違いだ)

「は?あの子…?」

(ま、あの子にはよくしてもらったから。あんたにもおこぼれをやろうと思って来たんだ)

 猫、ならばアジトの一員である絵梨佳だろうか。無類の猫好きである絵梨佳は、凛子と共に野良猫の保護もしている。そのうちの一匹か、いやしかし、こんな状況は初めてだ。

 とにかく情報を引き出さないことには、と身構えるKKをよそに、ぶち猫は優雅に毛繕いなどしている。ひとしきり舐め終えると、悠々と尻尾を揺らして再びKKに近付いてきた。

「おい、やめろ来るな、距離を取れ」

(猫を嫌がるなんて、けったいなニンゲンだね。なに、すぐ済むさ)

 ぶち猫はついにKKの胸の上にまでのってきた。硬直して鳥肌を立てるKKに構わず、ぶち猫はむにっとKKの額に肉球を押し付けた。

 りん、と頭の中で鈴の音がした。肉球ひと押し分の霊力が、KKのエーテルに同調していく。清涼で、動物の霊力とは思えないほど澄んでいる。

 はっと目を開けば、ぶち猫はもう開け放たれた窓の側にいた。よく見ると、窓の外にもう一匹、お決まりの羽織を着た猫又がいる。猫又の顔なんていちいち覚えてられないが、歌川商店街近くでよく見た個体のような。

(やっぱり音はいいよねぇ)

 羽織の猫又がしみじみと言う。ぶち猫は全くそのとおりと頷いて、ひょいと二本足で立ち上がった。

(それじゃあね。あの子によろしく言っておいて。おかげで良い先輩ができたよ)

「オイ、だからあの子って誰……」

(あと、年上として助言をあげる。歳食ってからの惚れた腫れただって、そんなに怖がることはないさ)

 KKは口を開いたまま固まった。二匹の猫又はにゃんにゃんと仲良さげに鳴きかわし、ふっと消えてしまった。

「………」

 しばし放心して、ばたりと布団に倒れた。朝から疲れた。

 ふらふらとスマホを手に取る。メッセージアプリを開き、ほとんど自分からは発言しないアジトメンバーのグループを開き、一言。

『おい、最近猫又に関わった奴は手を上げろ。怒らねぇから』

 待つこと五分。既読が一件つき、返事がある。自慢の弟子兼相棒兼、惚れた相手からだ。

『それ結局怒るやつじゃん』

「オマエかよ」

 ため息をつき、画面を閉じる。今日はアジトで会えるはずだ。問いただす必要がある。

 体を起こすと、ほろほろと何かが布団に落ちた。

 なんだと思えば、白い花弁と、青い若葉だ。そうだ、そうだった。指先でつまんで苦笑する。

 季節は移り変わる。これも来週か、早ければ今週のうちには消えてしまうだろう。

 無性に暁人の顔が見たくなる。消える前に会えたら、葉桜を連れた野郎が二人だ。悪くない。実際、なんにも進展してはいないのだが、気分は軽い。

 梅の枝を渡した春の初めは、どうにもこうにも胸がざわついて仕方なかった。それから季節をひとつ越して、いまの心は落ち着いている。ひとつ恋情が深くなって、しっくりと馴染もうとしている。受け入れる痛みの次は、苦しむ覚悟が必要だ。この歳になってなかなかしんどいものがあるが、なりたての猫又に激励されてしまったのだ。


 せいぜい頑張ってみるさ。腐らない程度にな。


 暁人がくれた葉桜を朝日に透かし、KKは小さく笑った。



懸魚

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