【GWT】道中


 疲れた。

 畳の上にどさりと膝を突く。そうすると、もう力が入らなくなった。デスクの脚に寄りかかり、長く息を吐く。

 KKのアジトの中は、静かだ。雨音も遠い。和室の一角にひしめく機器だけが、低く稼働音を伝えてくる。

 目を閉じる。動きを止めると、濡れた服の冷たさが強く感じられた。不気味な霧に覆われた今の渋谷は、雨がよく降る。この雨もきっと良くないものだ。あのおぞましく揺らめく霧と混ざった雨が、ただの水とは思えない。

 散々酷使した脚が僅かに痙攣する。こんなに動き続けたのは人生で初めてだ。ここに戻るまでは無視できていたひどい疲労が、体を休めようとした途端にせり上がってきて暁人を苦しめる。


 休憩は必要最低限だ。早く行かなければ。


 つい先ほどの光が目に焼き付いている。街のどこかから、天を衝く勢いでそびえ立つ光の柱。見た目ばかりが神々しいあれは、あの般若面の男が発生させたものだ。まるで映画のような、現実を疑うほどの異様な光景。それだけに、総毛立つような悪寒がした。何か、普通なら、普通の人間なら絶対にしてはいけないようなことに、あの男は手を出そうとしている。直感的に暁人は悟った。


 あの光の下に妹がいる。信じられるか。ふざけるな。


 鈍り始めた思考の中でも、暁人は奥歯を噛み締めた。

 妹が、麻里が。唯一残った家族が。理不尽にも炎に巻かれ、自由な体を奪われた妹が。どうしてこんな目に遭うんだ。あの男は、人の妹をなんだと思ってるんだ。

 怒りが湧き上がると同時に、付随するように、冷たい思考が胸を刺した。


 ――自分は何一つ、妹を傷つけていないとでも。


 考えたくないことがじわじわ広がろうとする。暁人は目を開けて思考を止めた。別の情報が入れば、それまでの思考はまた片隅へ追いやられる。

 そこで気付いた。

「…味噌汁?」

(飲めよ)

 思わず声に出すと、すぐに応えがあった。

 いつの間にか、右手が味噌汁の缶を握っていた。暁人が目を閉じて休んでいる間に、KKが懐から取り出したのだろう。いくら動作の主が自身ではないとはいえ、自分の腕の動きに気が付かないとは。思ったより、意識は深い所へ沈んでいたらしい。

(冷えた味噌汁ほどまずいもんは無いからな。台所で温めて飲んだらどうだ)

「いや…いいよ。今お腹空いてないし」

 あのマレビトとかいう化け物。あいつらの攻撃を食らうたびに、拾った食べ物を口にして活力を保っている。

 もう何度も殴られ、斬撃を食らい、火の玉のような怨念を浴びせられた。時には這う這うの体で逃げつつ、なんとかこうして切り抜けている。いたぶられ、視界に赤い…死の影が見えた時、無我夢中で口に詰め込んだのはなんだったか。味も食感も覚えていない。感じたのは、死を免れたことによる腹の底からの安堵だ。

 道中、食料に困ることはなくて助かった。だが今、食の楽しみなんて感じている余裕はない。

 当然、味噌汁で一息、など、勧められてもその気にはなれなかった。

(いいから、飲めよ)

「え、うわっ」

 体がひとりでに立ち上がった。KKが動かしているのだ。

 暁人の体を借りたKKは台所へ向かい、小鍋を取り出して火にかけた。そこに、缶の味噌汁を開ける。

「…シンクの皿、洗ったら?」

(………)

 浅いため息だけが返ってきた。台所を見た時から気付いてはいたが、この男、家事に関してはかなりのものぐさだ。

 くつくつと味噌汁が沸騰し始めて、出汁の良い匂いが漂う。

 それをぼんやりと眺める暁人に、KKはさらに言う。

(食ったら、軽くシャワーでも浴びればいい)

 暁人は寸の間呆気に取られてしまった。この状況で一体何を悠長なことを言っているのか。道中、先へ先へと急かしてきたのはどこの悪霊だ。

 右手が火を止める。紙の深皿に移し、割り箸を手に取る。

(ほら、食えよ。ここまでして食わないなんてことねぇだろ)

「…食べるよ、さすがに」

 湯気を立てる味噌汁を、少しだけ啜る。舌に馴染む味噌の味と、汁の熱さ。飲み下すとじんわり体が温まる。一度口をつけると、暁人はもう何も言わず、二口三口と腹に収めていく。アサリの他にろくに具も無い安い味噌汁。だが今はそれが、冷えて痺れた全身に熱を行き渡らせていく。

 KKはしばらく黙っていた。

 暁人が最後の一滴を飲み干し、深く息を吐いたところで、ぼわりと右腕に靄が渦巻く。

(今、オマエが折れたらオレも困るんだ)

「――知ってる」

 そんなことは、あの――スクランブル交差点で、体を乗っ取られかけた時から察している。

 そして今、あの取引を経て、双方承知の上でここにいる筈だ。

(適度に休め。風邪引きながらアイツと戦うつもりか?)

「そんな訳…ないけど」

(なら、ここでしっかり体力を回復させろよ。先は長いぞ)

 淡々と諭すKKの声に、少し前までは無かった気遣いが滲んでいる。

 出会ってからまだ数時間程度だ。人となりもよく掴めていない。一体今何が起こっていて、KK達が何をしてきたのか、暁人はまだ知らされていない。重要な情報は全て一方的にもたらされるばかりだ。いや、そもそもを言えば、暁人の方が埒外の人間だったのだ。暁人にとってもKKにとっても、互いは他人であり異物であった。

 だが今、お互いに対する抵抗は、徐々に和らいできている。不信感や疑念ばかりだったKKへの感情は明確に変化した。単純なことだが、この男にも家族がいるという気付きは、暁人の心境に多少なりとも影響を与えたらしい。

 暁人は自らの意志で、この男の魂を受け入れた。ここにいる暁人とKKは、まさしく一蓮托生だ。

「…わかったよ。降参」

 肩の力を抜く。大きく息を吐く。ちょっと休みたい、寒いから温まりたい。当たり前の要求を、暁人は優先した。

(替えの服もあるぞ。オレのが嫌じゃなければな)

「あちこちでしわくちゃになってるやつ?」

(ハンガーにかけてるやつもあるだろ)

「全部かけてよ。っていうか、この服はなんなんだよ」

 身に付けているタクティカルジャケットをつまむ。霊体のKKが…おそらく彼が死ぬ前に、着ていた服だ。広川神社の本殿でもう一度彼と融合した際、痛みから我に返った時には、この服装に変わっていた。

(……さあ?)

 誤魔化してるのか、KKもわからないのか。まあいいや、と肩を竦める。

「動きやすくて、なかなかいいよ」

 顔も見えない男が、にやりと笑った気がした。

(ま、なかなか似合ってるぜ)



 その後、シャワーを浴びている最中に(案外ご立派じゃねぇか)などと茶化されて、殴れない相手を殴りたくなったりもするのだが。

 事故現場で目覚めてから、巻き込まれるままもがき、駆け、不慣れな戦いを続けてきた。

 疲れ切った暁人はこのアジトでようやく、一先ずの安心を得ることができた。

 

懸魚

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