【GWT】【K暁】愛しの火車


 今何よりも暁人が吸いたい、とKKは思った。


 吸うとは、文字通り吸引の意味ではない。この自分の恋人である伊月暁人の、その体のどこかしらに顔を埋め、腹の底から深く深く深呼吸をしたいと言っているのだ。吸う場所はどこでもいい。ポイントが高いのは腹だが、さすがに泥酔状態でもない限り、そんな醜態はなけなしのプライドが許してくれない。腹はそのうち宅飲みの機会にでも狙うとして、素面でやるならやはり背中だろうか。

 と、つらつらとまとまりもなく思考しながら、KKは玄関ドアを開けた。視界に入る自分の手が、いつにも増して萎びて見える。疲れている。ああ、疲れているのだ。

 疲れた中年が欲するものは何か。煙草、ビール、安くて美味い飯、惰眠である。

 そして欲を言うなら、性欲、そう性欲だ。煙草で一息ついて、懐が痛まずかつ美味い飯をビールで流し込む。腹が満ちたところで思う存分惰眠を貪ったら、その後は時間も何も考えずに懇意の相手とくんずほぐれつ睦み合うのだ。

 なんて極楽。そんな贅沢が許されている中年は日本広しといえどもそうそういないだろう。

 惰眠までなら簡単だ。コンビニに寄って帰るだけでいい。今の時代は面倒なことも山ほどあるが、こういう利便性だけは歓迎できる。

 それで、そうだ。難しいのは最後だ。懇意の相手。心底好ましいと思える人間。悲しいことに今日日の中年男性は、たとえ家庭があっても、人間関係が希薄になりがちなのだ。

 だが仮に、幸運にも、幸福なことにも、そういう相手がいてくれたとする。

 だとしても、時間を気にせずくんずほぐれつなんてのは非常に難しい。相手にも生活と予定とコンディションと、あと機嫌というものがあるのだ。そんな我儘が通るほど世間と恋人は甘くない。

 何が言いたいかといえば、そう。

 今すぐに夜飯を食って風呂に入って、暁人と寝室で懇ろになりたい。それだけだ。

 疲労と比例して燻り出す性欲が、その夢のようなプランを現実にしてくれと訴えている。

 だが長年研ぎ澄ませた元刑事の勘が無情にも切って捨てる。九割九分の確率でその願望は叶わないと。何故なら暁人はいまレポートで忙しいからだ。

「おかえりー」

 ドンピシャ、正解だ。暁人はリビングでパソコンに向かい合っている。帰宅した自分を一瞥して微笑んでくれたが、すぐに画面に向き直ってしまう。

 こんなに真剣な恋人に、お誘いをかけたらどうなるか。考えるまでもない。

 普通に断られる。

 KKは良識のある中年なので、疲れマラなんていうこの上なく優先度の低いものをわざわざ口に出したりはしない。ダメ元でもお誘いを断られたらちょっと傷つくという繊細なおやじ心もある。燻る性欲には、さみしく水をかけることにするが。

 それでも吸いたい、という気持ちは、どうにも我慢が効かなかった。

「………KK」

 咎める声をお構いなしに、KKは暁人の背後に陣取り、その背中に顔を埋めて、深く深く深呼吸した。

「はああああああああ……」

 リビングに響き渡るようなため息で、KKの疲れ具合を察してくれたらしい。暁人はひとつ嘆息したものの、無言の許しと共にレポートを書き続ける。

 余裕のある時だったらもう少し甘やかしをくれたのかもしれないが、なんといっても〆切の近いレポート中なのだ。この場でこれ以上に優先されるべきものがあるだろうか。

 恋人の背は、まぎれもなく20代前半の成人男性のものだ。それなりに広く、筋肉もついていて、制汗剤か何かの爽やかな香りが僅かにする。そして温かい。触れれば触れるほど、全身にのしかかる疲労がおかしいくらいに溶けていく。

 吸う、は、絵梨佳に移された語彙だ。

 曰く「猫吸い」。猫の可愛さなど一生わからないと自負するKKには一生わからないが、猫を愛好する人々はよくやる行為らしい。猫に顔を埋め、深呼吸。やはり一生わからない。頬擦りと一緒で、顔は感触が伝わりやすい部分だから、しみじみと埋めてしまいたくなる…のかもしれない。わからない。

 だが最近、KKははたと気付いたのだ。疲れ切った日に、無性に心を疼かせる恋しさ。ただの人肌恋しさではなく、特定の誰か、――元妻、息子、そして今は暁人にしか満たせない渇望。「吸いたい」は、その欲求を表すに最も妥当な言葉であると。

 性欲ではない。近いところにはあるが、確かに違う希求だ。残念ながらKKには、それを堂々と表現できるほどの素直さは無い。言葉にできなくてもいいと開き直ってすらいる。

 それを満たすことが叶っている。その事実だけあればいい。心の枯渇した部分が、なみなみと満たされていくのを噛み締めて、KKは脱力した。

 しかしKKが思うに、中年男性というのは押しなべて助平な生物である。一度湧き上がった性欲を完全に押し殺すなんて、僧侶にしかできない芸当だ。

 そっとさりげなく両手を前に回し、暁人の胸を掌で包む。ゆるく揉み上げると、やわらかく程よい弾力がある。スポーツは特にしていないというのに、相変わらず立派な胸筋だ。

「ちょっと、無い胸揉まないでよ」

「無いものは揉めないから、これは揉んでないことになるな」

「おじさんの屁理屈ってほんとどうしようもないね」

「つれねぇなぁ暁人くんは……」

 哀れっぽい声を出してみても、返事すら無かった。レポート中だから仕方ない。

 猫はつれないところも可愛いと、絵梨佳が言っていたのを思い出す。

 つれないから可愛いのか、可愛いからつれないところも愛しいのか。KKは基本的にわかりやすい方が好きだ。ツンケンしている相手を可愛いとはなかなか思えない。だから暁人に関してはきっと後者だ。猫の話をしてるんだよ?と想像の絵梨佳が呆れて言う。

 そのまま背中にしがみついてやる。暁人はやはり動じない。好きにはさせてくれるらしい。そこが今日の許容ラインだ。傍から見ればまるで構ってほしい子供のようではないか。だが人間誰しも、子供のようになる時があったっていい筈だ。

 瞼が重くなってくる。「吸い」のセラピー効果は絶大だ。重いだろうから眠るまいとしながらも、半ば陶酔して微睡みに身を任せる。


「…おい!」

 突然に強い声がして、体を突き飛ばされた。

 ハッとして我に返ると、目の前にはキツい目つきの暁人がいる。そのシャツが胸元まではだけているのを見て、夢見心地で自分の手がどんないたずらをしたかようやく自覚した。

 弁解する間もなく暁人は立ち上がって距離を取り、徐に両手を構えた。こいつは非常にまずい。一気に覚醒したKKは遅れて立ち上がり、一も二も無く両手を上げた。

 暁人の両手に火の霊力が集まり、凝縮された火球が火の粉を上げた。暁人とKKが、〈マレビト〉退治をする時に使う火のエーテルだ。マレビトを、滅するべき敵を、滅する時に使う火の槍だ。

「わかった悪かった」

 この本気を前にプライドなど紙切れに等しい。降参、降参だ。武器は何も無い。妥当な言い訳も、体内のエーテルも本当に、無い。

「レポートの〆切近いんだよな?邪魔して悪かった」

 謝罪、謝罪だ。経済状況に余裕の無い暁人にとって、学業は将来のために専念すべきものなのだ。KKはさらに言い募る。

「傘と鋏とエーテルは人に向けちゃいけねぇ、わかるな?」

 保育園で習う基礎だ、常識だ。だから向けないでほしい。炎に照らされながら、暁人は氷のような目でKKを睨む。

「交際関係でも同意がなきゃセクハラなんだからな…」

 ああそうだろう。その通りだ。交際関係にかこつけて無体を強いるクズは散々見てきた。死んでもあんな連中と同じにはなりたくない。だからどれだけ疲れていても、無意識の行為であっても、認めよう、悪かった。暁人は間違ってもそういう気分ではなかったのだ。

「嫌よ嫌よがマジの嫌なんだよなぁ…」

 嫌よ嫌よが本当に好きのうちだったことなんて生まれてこの方見たことないが。

 全身で謝罪を示しながら、KKの疲弊した思考は勝手にぐるぐると回る。

 暁人はかなり顔の良い若者なので、物騒な威嚇をしている今もやはり顔が良い。怒っていても顔が良いとは得なことだ。怒っていても申し訳ないけどかわいい、という絵梨佳の声がまた脳裏を過る。対するKKは何かと猫に威嚇されがちな男である。

 火車、という名前が、不意に脳内に弾き出された。

 猫と、火。その二つで自動検索がかかったのだ。妖怪で、化け猫の一種で、それで……と、半ば現実逃避じみた思考が情報を読み上げ始める。

 だが、暁人がパン、と火球を挟み消したことで、KKの思考は一旦停止した。

「…本当に疲れてるね」

 暁人は呆れ返った顔で、両手を上げたまま棒立ちするKKを見た。血色が良くないし、普段より隈が濃いし、皺も深い。まさに疲れた中年の顔だ。受け答えは普通だが、ずっとどこかぼんやりしている。

 肩を竦めて、暁人はパソコンを閉じた。

「味噌汁温めるから食べなよ。あとシャワーも浴びて。そのままじゃゆっくり寝られないだろ」

 立ちっぱなしのKKを残し、暁人はせかせかと動き出す。台所で小鍋を火にかけて、ぽいぽいとスウェットを投げて、給湯器のスイッチを入れる。思考がついていかないKKが呆けていると、暁人は無理やりその背を押して浴室に押し込んだ。

「中で寝るなよ。お風呂場で転倒とか笑えないからな」

「…」

 言い返せないKKは、大人しくシャツのボタンをぷちぷち外した。


 そして今、こざっぱりとして、腹も満たされて、ちゃんと歯磨きもした状態で、KKはぬくぬくと布団に入っている。

 ずっと一連の様子を見守っていた暁人は、ようやく表情を緩めた。

「お疲れ様。おやすみ」

 KKの右手をひとつ強くぎゅっと握って、寝室を出ていく。

 ドアが閉じ、暗く穏やかな静寂に沈んだ寝室で、KKは思考する。それは、シャワーを浴びる前よりもだいぶゆっくりで、綿のように柔い思考だ。

 世の疲れた中年が欲するもの。煙草、ビール、安くて美味い飯、惰眠。そして懇ろな相手だ。

 定石どおりに全て得られた訳ではない。煙草とビールなんて口に出す間もなかった。だがいい。一番に渇いていた部分がすっかり満たされたから、今日のところは止しておいてやろう。

 隣のリビングで、タイピング音が再開される。明日には終わっていてほしいと願うばかりだ。そうしたら、つれない猫のような暁人も、今日よりかは構ってくれるはずだ。

 KKの思考は、やがて本人の意識も離れて、ゆるゆると眠りの淵へ流れていく。

 今日の仕事。いけすかない依頼人の顔。頭痛を催す依頼内容。次々と湧き出るマレビトたちの姿。淀んだ空気、冷えた帰路。

 そして、自宅の温かさと、恋人。

 全てが一緒くたになって、記憶の中へ納まっていく。その中途で、火車、という考えかけだった項目が再び再生される。再生が終了した時には、KKはきっと深い眠りの底にいるだろう。


 ……火車は、死体を奪い去っていく妖怪だ。

 姿は様々あるというが、通説として正体は化け猫とされている。葬列や墓場を襲い、特に悪行を重ねた者の死体を奪うのだという。奪い去られた後どうなるかは定かでない。食われるのか、どこぞへ――地獄とかへ、連れて行かれるのか。

 悪行。KKに犯罪歴は無い。だが良い人間でもない。警察としての長いキャリアは、人が当たり前に持つべき情けや優しさや、感傷といったものを鈍化させた。良い夫でもなかった。良い父でもなかった。良くあろうとしたが、間違っていた。

 沙汰を下すのは自身ではない。きっと閻魔だとかそういう、いけすかない大きなものだ。自分の意志と関係なく強制的に動かしてくる、そういったものにはもう飽き飽きだ。誰かの沙汰を待つのなら、せめて大事な人間がいい。

 火車。最期の瞬間に、人生の善悪を見定め、何処かへ連れ去る妖怪。恐ろしい化け物なのだろうが、ろくでなしの始末をつけてくれるなら、そう悪いものでもないとKKは思う。帰る場所が、行くあてが無いことの侘しさは、KKの骨の髄まで滲み込んでいる。実在するかは知らない。いたら嬉しいが、いなくてもいい。

 もう間に合っている。

 

 ドアの向こうで、真面目腐ってパソコンを見つめている若者が、きっと自分にとっての。

懸魚

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