【GWT】火
ドアノブに触れた瞬間、痛みに似た冷たさが走った。
「ひっ」
思わず声が漏れる。飛び跳ねて離れると、後ろのKKが神妙に唸った。
「…触っただけでコレか。何を感じた?」
暁人は右手の指先を見た。じんじんと赤く腫れている。しばらくは痺れが残りそうだった。
「…冷たかったよ、すごく。まだちょっと痛いくらいだ」
KKは眉間に皺を寄せる。
二人の目の前にあるのは、何の変哲もないアパートの玄関扉だ。郵便受けは閉じられており、空室であることがわかる。それ以外は特筆すべきこともない、ごく普通のベージュの扉である。
だが暁人とKKの目を通せば事情は一変する。負の感情の集合体である〈穢れ〉を捉える二人の目には、扉は元の色も分からないほど、赤黒く汚れて見えた。
KKは無言のまま印を結んだ。両手で霊力を放つと、赤黒い穢れはざあっと消え失せ、本来のベージュ色が露わになる。だがすぐには扉を開けず、KKはドアノブを握り、確認のためかそのまま静止した。
側で静観していた暁人は、玄関扉に再び穢れが浮き出したのを見て声を上げた。
「KK!」
「ぐっ…!」
KKが呻き、ドアノブから手を離した。手のひらは真っ赤に染まっていた。
内側から滲み出す穢れは見る間に増殖し、粘菌のようにびっしりと玄関扉を覆った。KKが祓う前と同じ状態だ。辛うじて触れることができるドアノブは、二人が確かめた通り、氷よりも恐ろしい冷たさで触れる者を拒絶している。
「こりゃ、かなり厄介だぞ。なんとなく予想はしてたがな」
「なんだよ、これ…」
暁人がもう一度穢れを祓う。穢れは消滅し、ドアノブの冷気も消える。だが少しすれば、また中から穢れが滲み出して元通りになってしまう。
「…室内はどうなってるんだ」
「想像したくもねぇが、想像できちまうな」
無人のアパートの三階、角部屋の前で、二人はしばし沈黙した。
今回の依頼主は、とある不動産会社だ。
どこの会社も、不動産業をやっていれば事故物件のひとつやふたつ、いや十軒くらいは抱えているものである。事故物件とは、広義ではその物件の内部で前居住者が死亡した経歴のあるものを言う。事故物件と呼ばれるものには様々なケースがあるが、基本的には心理的瑕疵のあるものと捉えて相違ない。
『もっとも半世紀ほど前までは、自宅で人が亡くなるのはごく普通のことだったようだがね』
依頼内容の整理をしている時、資料をくれたエドはそう語っていた。
高度経済成長期を経て、地方に発展の波が行き渡るまで、冠婚葬祭は家で行われるのが通常だった。凄惨な事件があったならば話は別だが、家で人が死ぬこと自体はさほど恐れるようなことではなかったのだ。それが瑕疵へと変化したのは、生死を迎える場所が、家から病院へと移り変わったからだ。
閑話休題。
依頼の担当者が恐る恐る提示してきたのは、一棟のアパートだった。
このアパートの三階の角部屋で、人が亡くなった。それも他殺だった。死因は窒息。発見されたのは、死後三年が経過してからのことだった。その三年間で住人は殆どいなくなった。アパートの全域に渡って発生した怪奇現象のためだ。
死体遺棄事件が発覚し、そして収束した後も、退去者は後を絶たなかった。どれだけお祓いをしても霊障は収まらない。中には物件を見るなり、これは手に負えないと断る神職もいたくらいだった。だが確実なのは、三階角部屋にその原因があることと、遺棄事件が発端であることだった。
そういう事情であればと、精力的に動いたのがKKだ。
何せ、彼の前職は警視庁捜査一課所属の刑事である。踏んできた場数は群を抜いている。長年勤めてきたゆえのツテもある。彼が事件の詳細を揃えてくるまで、そう時間はかからなかった。
改めて依頼の全容を眺め、暁人は表情を歪めた。
「僕たちに解決できるかな」
不安げに眉を下げる暁人の背を、KKがばしりと叩く。
「できるかできねぇかは見て決める。できそうだったら解決する。できなさそうだったら…」
「だったら?」
「もう一回出直して、策を練って、解決するんだよ」
KKはニヤリと笑った。あんまりな言い分に暁人はぽかんとして、それから噴き出した。
そうして訪れた問題のアパートは、案の定穢れきっていた。
外から見た限りでも、玄関部分、外階段、各階の外廊下、屋上にまで、樹木の形をした穢れが高々と育っていた。それらを祓いつつ辿り着いた三階角部屋。その玄関扉は、見ての通りだ。
「どうする?」
「…穢れを祓ったら、開けるぞ。いいな」
「OK」
暁人が印を結び、再度穢れを祓う。すぐさまKKがドアノブを掴み、扉を開け放った。
「うわ…」
「…ここまでの現場は、さすがに初めてだ」
内部の惨状に、二人の表情が苦くなる。
真っ黒で、真っ暗だ。狭苦しい室内にびっしりと穢れがのたうち、壁や天井を覆ってしまっている。外から見える廊下部分だけでもこの有様で、奥のリビングは一体どうなっているのか。想像するだに寒気が走る。
「片っ端から祓っていくしかないね」
「ああ、気合入れろよ」
二人がかりで風のエーテルショットを撃ち込み、穢れの核を砕いていく。やはりこの部屋が原因でアパート全体が穢れていると見て間違いない。内部に張り付いた穢れは、壁を貫通してアパートのあちこちにまで根を張っているようだった。足の踏み場を確保し、室内に入ると、ぞっと芯まで凍るような冷気が身を襲う。
「穢れと、…被害者の負の感情のせいだろうな。ぼんやりしてたら凍死しちまうぞ」
玄関扉は、万が一にでも閉じてしまうことが無いように、ワイヤーで外廊下の鉄柵と繋いだ。この空間に閉じ込められてしまうなど冗談でも笑えない。
KKが先に立ち、ゆっくりと進んでいく。穢れが取り除かれた部屋の内部は、玄関扉と同じく、少なくとも見た目だけは普通だった。殺人を彷彿とさせるような痕跡など一切無い。むしろそれなりにきれいなくらいだ。
だが玄関から重く立ち込める冷気は尋常ではない。息苦しい圧迫感があり、不快で、長く吸い込んでいると肺が内側から壊死してしまうような錯覚すらした。この冷気に晒され続ければ、どんな者にでも悪影響が生じるだろう。人間でも、人間でなくても。
「開けるぞ」
「うん」
KKがリビングのドアに手をかけ、慎重に開いていく。隙間から露わになっていく内側は、一条の光も差さない暗闇だった。
と、突如バンッ!とドアが全開になり、KKの体が前のめりになる。
「おわっ⁉」
「KK‼」
倒れ込んだKKの姿が、闇に呑まれて消える。暁人は悲鳴を上げ、間髪入れずその後を追って飛び込んだ。
視界が真っ黒に塗り潰され、これまで以上に冷たい空気が、喉を通り過ぎ肺を刺した。浮遊するような感覚の後、足の裏が地面を踏む。眼球に暗幕が貼り付いたような、どろりとした闇の中だ。
「暁人‼くそ、暗すぎて何も見えねぇぞ…!」
「KK…‼」
声はすぐ側にあった。暁人は深く安堵し、それから意識を集中させる。暁人の本性は人間ではなく、狐だ。その狐としての霊力を、火の玉として形にする。
真っ白に発光する炎が、ぽぽぽっと暗闇に灯った。ひとつひとつは小さいが、朝の光のように眩く澄んだその狐火は、瞬く間に辺りを照らし出した。KKは暁人のすぐ隣にいて、狐火の光量に目を丸くしていた。そして暁人を見て、「やるな」と言わんばかりにニヤリと笑う。
互いの無事を確認して、二人は改めて辺りを見回した。
「ここは…」
「また面倒な所に連れてこられちまったな」
狐火で露わになったのは、構造物の入り乱れる異空間だった。
穢れが蟠る場所には、こういった空間が出現することがある。現実世界の事物が混然一体となり、バラックにも似た無秩序な構造体が作り上げられるのだ。もちろん長居していい場所ではない。穢れを祓うどころか、二度と出られなくなる可能性さえある、危険な空間だ。
「その火、しばらく出していられるか?」
「問題ない。もたせるだけならいくらでも」
「狐様様だな」
笑う相棒に、火ならKKだって、と言いかけてやめる。
筏のように、ぽつりと虚空に浮かんだフローリングの床に二人は立っている。そこから壁の無い廊下が伸び、先はコンクリートが剝き出しになった外階段へと続いている。その周囲に展開されているのは、めちゃくちゃになったアパート内部の構造群だ。アパートの各部分が分解され、物理法則を無視して回転、拡張、増殖などを繰り返し、てんでばらばらにつなぎ合わせたような、途方も無く巨大なレゴブロック、あるいは立体パズルというべき構造体である。
上を見れば、逆さまになった浴室からざあざあと水が流れ落ちている。下を見れば、果てしなく続くベランダの列があり、どれも同じカーテンが一様にひらひら揺れている。横を見れば、横向きになった外廊下で、防火扉がけたたましく開閉を繰り返していた。
「正しい道なんてあるようには思えないな」
「そんなもんねぇよ。無理やりにでも出口に行くんだよ」
「どこが出口かわかるのか?」
「簡単だ。より寒い方に行けばいい。…嫌そうな顔すんな。オレだって嫌なんだぜ」
カイロを持ってくるんだった、と所帯じみた後悔が浮かんだ。
構造体の内部に入れば、照明やガスコンロなど、光と熱を発するものも散見された。だがこの異空間自体が、濁った水中に似て光が通りにくい。スモッグのように質量をもった闇が停滞し、内部の光を遮断している。暁人の狐火に強い光量が無ければ、早々に足を踏み外して奈落へ落ちていただろう。
「…こっちだ。大丈夫か、暁人」
「KKこそ」
「生意気言う元気はあって安心したぜ」
奥へ奥へと進むほど、冷気は厳しくなっていく。
暁人の歯がかちりと鳴った。まずいことに、体が震え始めている。するとKKが徐に振り返り、暁人の手首を掴んだ。
「なんだよ…、…えっ」
にわかに右手が温かくなった。KKの手から熱が伝わり、みるみる全身へと広がっていく。火のエーテルとはまた違う。とくとくと、そこから力強い血潮が流れ込んでくるような、不思議な感覚だった。得も言われず心地良い。
手を離した時には、冷え切っていた体はすっかり熱を取り戻していた。
「こんなことできたのか?初めて知ったよ」
「まあな」
「助かった、ありがとう」
KKはがしがしと頭を掻いて、またくるりと背を向けてしまった。
でたらめなアパート構造体の中を抜け、冷気の源を目指して進む。やがて辿り着いたのは、またあのリビングのドアだった。オブジェのようにぽつんと立つドアの隙間から、ひゅるひゅると冷気が漏れ出している。この異空間の闇と冷気の全てが、ここを源としているのだ。
「さて、いよいよ本丸だ。三度目はねぇぞ」
「そうあってほしいね」
今度こそ身構えて、二人はゆっくりドアを開いた。
(どうして)
女性の声が響いた。
何の変哲も無いアパートのリビングだった。薄暗く、がらんとして殺風景だ。だが思っていたほど穢れてはいない。
ただドアの正面、部屋の真ん中に、女性の霊がひとり立っていた。
「貴女は…」
話しかけようとした暁人をKKが制する。
女性はぼんやりとした様子で、か細く揺らめいている。自失状態なのか、暁人たちが近づいても反応は無かった。
(どうして…)
時折、思い出したようにそれだけを呟く。被害者だろうな、とKKが耳打ちした。三階角部屋、この部屋で殺害され、遺棄された女性だ。彼女がまだ成仏していないのなら、アパートを蝕む穢れの原因である可能性は高い。
だが二人にとって予想外だったのは、彼女が悪霊ではなかったことだ。
「KK、この人…」
「ああ…」
青く透明なその体は、彼女が肉体を失い魂だけの存在であることを示している。魂が穢れ悪霊となっていれば、その体は赤黒く染まっているはずだ。稀に善良なふりをして本性を隠している悪霊もいるが、彼女にそのような気配はない。
あれだけ周囲に穢れを振り撒いているのに、本人が穢れていないなんてことがあるのか?
同じ疑問が二人に浮かぶ。だが悠長に思考できる場面ではない。
「…僕が行く」
「おい…」
「距離は保つ。何かあった時のために後ろにいてくれ」
「…少しでも妙な気配がしたら、すぐに離れろ」
「わかってる」
囁きを交わし、暁人が前に出る。
「大丈夫ですか」
話しかける。反応は無い。
「どうかしましたか。どこか、苦しいんですか?」
暁人の声を聞きながら、KKは心の中でお人好しめと詰る。霊に反応させるためのポーズではなく、本心から気にかけて言っているのだ。
「――さん」
被害者の名前を呼ぶ。ようやく女性が顔を上げた。靄のような霊体は目鼻立ちがわからないが、確かに目が合った。
「僕たちがわかりますか」
(……うう……)
茫然と暁人を見つめる女性は、やがて小さく呻いた。ほろりと彼女の頬を青い雫が伝い、みるみるうちに溢れていく。彼女は背を丸め、嗚咽を押し殺すように泣き出した。
(うう……なんで……なんで…)
「――さん、大丈夫ですよ、貴女を助けにきたんです」
暁人は懸命に語りかける。万一の危険を考えると、無防備に側に近付くことはできない。だが何か返事をしてくれたなら、会話ができるなら解決の糸口はあるはずだと信じて。暁人の足が、無意識に一歩を踏み出した。
「――暁人‼」
その瞬間にKKの鋭い声が飛んだ。ほとんど反射的に暁人は飛びのく。後ろからぐいと腕を掴まれて、さらに距離を取らされた。
「KK、どうした…」
「足元を見ろ」
KKは表情を硬くして女性の足元を示した。そこでようやく暁人は気付いた。
ぽたりと床に落ちた涙が、見る間に白く凍り付いていく。冷気を上げる氷の粒は、やがて黒く染まり穢れと化し、じわりと床に沁み込むように消えた。
(うっ…うう……)
女性がはらはらと涙を零すたび、一滴、一滴と冷ややかな穢れが積もっていく。
「これが原因か…!」
KKが御札を取り出す。だが祓うに祓えず、歯噛みをして動きを止めた。
彼女は悪霊ではない。悪霊だったらとっとと地獄送りにするが、まだ穢れていない魂を無理に祓えば、どんな影響が出るかわからない。
「KK…!」
暁人が慌ててKKの腕を掴む。この年若い相棒も許しはしないだろう。そうであれば、どうすれば良いか。回りかけたKKの思考が、不意に急停止する。眼前をひらりと舞った雪片のためだ。
道中、絶えず冷気に満ちていたことは、さほど問題にはならなかった。それは事前の調査で、被害者の死因に冷気が関係しているとわかっていたからだ。
二人の敵であるマレビトは、穢れに引き寄せられる。穢れた場所にはマレビトが湧くのが常だ。当然、今回も交戦は避けられないつもりで依頼に臨んでいる。そして冷気に関わるマレビトは、一種類しかいない。
室内に、ちらりちらりと雪が舞う。
―――<白無垢>!
二人の思考がシンクロした。
それを読んだかのように、急激に空間が変化する。床が消え壁が消え天井が消え、二人は再び重い暗闇に包まれる。女性の姿も消え、一切の熱と光が失われた。暁人は咄嗟に狐火を出して辺りを照らす。そこは何も存在しない茫洋とした空間で、わかるのは雪が降っているということだけだった。
「やっとお出ましか。待ち侘びたぜ」
「出ないままの方が嬉しかったけどね」
雪が渦を巻き、白いつむじ風を起こす。風雪の中から現れたのは、背丈三メートルもあろうかという大女だった。名の通り、薄汚れた白無垢を見に纏い、角隠しからは生気の無いざんばら髪を長々と垂らしている。
白無垢がゆるりと面を上げると、雪が激しさを増し、地面は凍り付いた。二人の吐く息も白く染まる。
「寒い……けど、わかりやすくて助かるね」
「ああ。相変わらず良い的だ」
見るからにおどろおどろしい敵ではあるが、相対するのは初めてではない。無論、舐めてかかりはしない。そして怯みもしないのだ。
「視界が悪いからな。オマエは灯りの確保に専念してろ」
「なんだよそれ。いいとこどりするつもり?」
「オマエに女の相手はまだ早い」
「今どきそういうの嫌われるよ」
二人同時に放った火の槍は、火の粉を上げて白無垢を穿った。氷には熱。単純な発想だ。
白無垢はよろめきながらも、するすると滑るように動いて鋭い氷片を飛ばしてくる。それを避けつつ、白い大きな影目がけて火のエーテルを撃ち込んでいく。
白無垢は強い恨み辛みから生まれるマレビトだ。穢れた場所に白無垢が出現すれば、その呪いの力によって穢れはさらに増殖していく。対抗手段がなければ、――エーテルもマレビトも視認できない普通の人間などは、なす術もなく呪殺され穢れの糧となってしまう。
人間より冥界に近しい妖怪たちにとっても、マレビトは厄介の元だ。場を穢し、傷つけ、あまつさえ霊力を奪おうとしてくる。最早天敵とさえいえる存在だ。二人も、もう何度妖怪を狙うマレビトたちを退治したか知れない。
「本場の雪女に会ったことある?」
「ないが、さぞ迷惑してるだろうと思うぜ」
「同感」
火のエーテルが爆発し、氷を砕いていく。白無垢は苦悶して巨大な体をのけぞらせた。黒髪から覗くのは、ぞっとするほど細長い首と、紅ばかりがべたべたと目立つ醜い唇だ。ノイズ混じりの女性の悲鳴がガタガタの歯列から漏れる。だが二人は眉ひとつ動かさず、戦略なんてものもなく、無遠慮に最大火力のエーテルを食らわせた。
―――アァァ…
白無垢の体が頽れる。白無垢が倒れ伏し、消滅すると、吹きすさぶ雪も止んだ。
「本物は、少なくともコイツよりは別嬪だろうよ」
「マレビトと比べるなんて失礼だぞ」
満ちていた闇が急激に色を失くし、真っ白に変わっていく。空間が消滅するのだ。
周囲に色が戻った時、そこは元通り、アパートのリビングだった。
(うっ……うっうっ…)
女性の霊は蹲り、未だ声を押し殺して泣いていた。抑えきれない嗚咽で、丸まった背が揺れている。だが潜んでいた白無垢が消えたからか、冷気は幾分和らいでいた。
KKが女性に近付く。
「KKっ…」
止めようとした暁人にひらりと手を振る。少なくとも、問答無用で除霊する気は無いのだと理解して、暁人は渋々口を閉じる。
「なあ、アンタ」
やはり反応は無い。KKはひとつ大きく溜息した。職業柄、悲嘆に暮れる人間はもう見飽きた。だからといって、慰めが上手くなった訳ではない。心の傷を癒す最適解というのはきっちりその人間の数だけ存在するのだ。
……愛した恋人に裏切られ、財産も全て奪われ、果てには殺された人間の悲しみを晴らすには?
どんな難事件よりもそちらの方が厄介だ。そしてKKは、難事件の方が得意な性質だ。
「なあ。――さん」
(……う、うう…)
「足、痛くねぇか」
KKの発言に暁人はハッとして、霊視の滴を落とす。霊力の波が触れた途端、彼女の足に絡みつく穢れが浮き上がった。びっしりと根のような穢れに縛られ、膝下までは赤黒く染まりかけているのがわかった。
死後、負の感情に呑まれた者は悪霊となる。酷い死に方をした彼女が、三年以上経ってもまだ透明でいられているのはそれほどに芯が強かったからか、はたまた恨みよりも悲しみが勝ったからか。
「泣くのは悪いことじゃねぇ。そうやって悲しいのを吐き出せてるから、アンタは悪霊にならずに済んでるんだ。だがここで泣き続けられると、住んでる連中が困るんでな」
彼女が悲しんで流した涙は、彼女自身を穢さずともその場に蓄積して、やがて建物全体に根を張るに至った。いずれは彼女も、自分が吐きだした穢れに呑まれることになるだろう。どんな感情も時間と共に風化する。だが亡者の時間は、死んだ時点から生者のものとは異なっている。彼女が悪霊に成り果てるのが先か、悲しみが尽きるのが先か。考えるまでもなかった。
「KK……」
相棒の気遣わしげな声を背で受け、KKは思案した。
…ひとつ、考えがある。穢れは祓えるが、彼女を穏やかに成仏させてやれるかはわからない。多分最適解ではない。だがKKができる事の中では最善に近い。
「…暁人ぉ」
「なに?KK」
「ちょっとくらい火傷してもケンケン言うなよ」
「ケンケンってなに…あっ狐だから⁉ちょっとそれ馬鹿にして……うわっ⁉」
言い終わる間もなく、突如噴き上がった熱気に顔を覆う。
轟々と凄まじい炎が渦巻いた。仄暗い赤色をした業火は、あっという間に部屋を埋め尽くし、女性の足を縛る穢れもあっけなく焼き切ってしまう。
あり得ない光景に、女性はさすがに顔を上げ、うろたえた反応を見せた。そして目にしたのは、額から二本の角を生やした男が、その体から激しい炎を生み出す姿だった。
「熱くても勘弁してくれよ。オレは荒療治しかできない鬼でな」
女性を見据え、にやりと笑った口から、長く伸びた牙が覗いた。
黒い角に赤い脈が浮かび上がる。地表に流れ出たマグマを思わせるその熱は、放出する側から炎となり、熱風を伴ってリビングの形をした空間を吹き飛ばす。ハリボテのように床や天井が消え失せれば、三人はまたあのアパート構造体の空間へ戻っていた。
広大な空間に投げ出されても、火勢は止まない。炎の奔流は底なしに膨れ上がり、構造体の中を余すことなく燃やしていく。暁人の狐火と違い、その鬼火は光量に乏しい。だが熱と勢いは比にならない。恐ろしい冷気も払い除け、KKの鬼火は空間ごと穢れを焼き尽くしていく。
暁人は上を見上げる。限界という概念の無い空間のように思えていたが、今は業火に照らされ、ぼんやりと果てが見えていた。
「……冷蔵庫の中…?」
巨大な凹凸のある壁は、冷蔵庫の内側によく似ていた。
「もう動けるか?」
向き直ると、KKはめらめら燃え上がる鬼火もそのままに女性に語りかけていた。
女性は放心していたが、こくりと頷いた。あまりの驚きのためか、少しずつ自我が戻ってきているようだった。
(…わた、…私……)
「ああ、いい。無理に話さなくても大体わかってる。警察だからな」
元、だし、この状況で平然と国家権力を名乗るのはちょっとおかしい。暁人は内心で突っ込みつつも二人を見守る。
「もうここにいる必要は無い。あんたが行くべき場所に行くんだ。そしたら、今よりは幸せになれるさ」
(……でも…)
「恨みも辛みも簡単に捨てろとは言えねえ。だが死んじまった以上、あんたを不幸にする重荷にしかならねぇんだ」
負の感情が、時には前に進むためのエネルギーとなることもある。だが亡者に未来は無い。ただ身の内に溜まって腐らせていくだけだ。
(でも……どうやって…)
「道がわからないか?」
女性は頷く。KKが暁人を見た。暁人はため息した。
「大事なところで僕?」
「花を持たせてやるんだろ」
もう何度目かの狐火を呼び出す。燃え盛る鬼火と合わせ、眩い狐火は今度こそ、一片の暗闇も許さず空間を照らし出した。何もかもが白く染め上げられ、光と共に消えていく。
「名前の通りだな」
愉快そうなKKの声がして、空間は崩れ去った。
霊視しても、もう何も見当たらない。
きれいさっぱり普通の物件になったアパートを後にして、暁人とKKは街を歩く。
「まだ体の芯が冷えてるような気がするよ。寒かったね」
「なんだ。じゃあ報告の前に、ラーメンでも食いに行くか」
「いいね。だけどそれより、さっきのやつもう一回してくれよ」
右手を差し出すと、KKは呆れ顔をした。だがひどい瘴気に晒された後だからか無言で握り、暁人の体へ熱量をもった霊力を流してくれる。
KKは鬼だ。鬼は渋谷の街中でもたまに見かけるが、彼らとはまた違う鬼だ。地獄の獄卒にも似ていて、体の中を激しい炎が巡っている。それは彼が内に抱える激情と同じものでもある。
「ありがとう、もういいよ」
暁人は言う。だがKKは手を離さない。血潮のような熱がどんどん流れ込んでくる。
「ちょ、ちょっと!KK!熱い!」
「オマエがやってくれって言ったんだろ」
ニヤニヤしたおっさん面が憎たらしい。のぼせる前に必死に手を振りほどいた。体はカッカと熱をもち、いっそ汗だくになってしまっている。
「うわもう…この野郎。このまま冷えたらほんとに風邪引いちゃうよ」
「仕方ねぇな。ラーメンは後にして、さっさとアジトに帰るか」
「誰のせいだよ」
ぶつぶつ呟きつつ、二人は街を行く。夜なら天狗を呼び出して上空を行くか、獣道を通ってアジト近くの神社まで近道するところだが、まだ明るく人目のあるうちはそういう手段は使えない。
「――それで、さ。あの人を殺した犯人は…」
「資料にあったろ。とっくに死んでるよ」
「死因は?」
「凍死」
さもありなん、と暁人は嘆息した。
彼女の遺体が発見されたのは、恋人だった男が別の事件で容疑者となり、家宅捜索が行われた際だった。警察が部屋に踏み込んだ時、男は既に死んでいた。冷房機器が無いにも関わらず、体表に薄く霜が張るような氷漬けの状態になって、寒々しいフローリングの上に転がっていた。
そして冷凍庫の中から、押し込められていた彼女の遺体が見つかったのだ。
「だがそのクソ野郎だけだ。他は誰も死んでない。やったのも、彼女自身じゃなくて白無垢だろうしな」
「優しい……というより、純粋だったのかな」
悲しい、悲しい、どうして、と、それだけが心を埋め尽くし、何年もずっと泣き続けていたのだろう。
元通りになった三階の角部屋で、最期に彼女は微笑んだ。(ありがとう)とそう言って、空へ昇っていった。
「成仏させてあげられて、よかったよ」
「そうだな」
見慣れた繁華街へと戻ってくる。そこで、ふとKKが暁人を見た。
「なに?」
「そういえばさっきから、言ってなかったんだけどな」
「え、なに」
「前髪焦げてんぞ」
「うそ⁉」
悲鳴を上げ、暁人はフジヤマートのガラスで髪を確認し出す。中で雑誌を物色していた猫又がぴゃっと飛び上がるのが見えた。
KKはかっかと笑いながら、足取りも軽くアジトへ歩き去っていった。
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