【GWT】狐、猫
「きっと凛子に怒られるよね」
彼女は呟いた。
言い終わるなり不安そうに眉を顰め、小さく唇を噛み締める。凛々しい横顔だった。逆さに立ち昇る雨粒が、その頬を濡らしていた。
「僕も一緒に怒られるよ」
暁人が笑って言うと、彼女は結んだ唇を綻ばせた。
「いいの?怒った凛子って、結構怖いのよ。それにきっと、KKも黙ってない」
「いいよ。普段怒られることなんてないしね」
「優秀なんだね」
「違うよ。怒ってくれる人って、実はそんなにいないんだ」
彼女がこちらを見る。黒い瞳がちらちら光っていた。張り詰めていた緊張が静かに解れて、ずぶ濡れの彼女ははにかんだ。同じく濡れ鼠の暁人も微笑む。
ケケケケ、と機械音じみた笑い声が会話を断ち切った。不快な笑声は二つ、三つと増え、やがて幾重にも重なって二人を囲む。見上げれば、薄汚れた青白い素足が垂れ下がっていた。渋谷のビルの屋上、その中空にいくつも、いくつも。
何を願って、そして諦めて、その姿になったのか。首を吊られながら彷徨って、一体何を欲しているのか。死装束にも似て白いその布に覆われているのは誰なのか。マレビトは負の感情から生まれる。光とコンクリートが重苦しくひしめくこの街に、叶わぬ夢を抱く人間とは思いの外多く存在しているらしい。そして夢が砕け散る瞬間というのは、相応の痛みを伴うものらしい。夢の残滓が恐ろしい形を成して、人間に敵意を向けてくる程には。
「KKは、まず数を把握しろって」
彼女の瞳孔がきゅっと細くなった。小さな呟きに、暁人は場違いに微笑ましい気分になる。彼女は年下だが、勤め先においては先輩にあたる。KKから戦闘技術を教わっていたのも彼女が先なのだ。
「…五体、だね。でも、周りにもたくさんいる」
「本当?困ったな。すぐには帰れなさそうだ」
あえて余裕ぶってみせると、彼女はまた笑う。正直なところ、彼女をこんな状況に巻き込みたくはなかった。今この場における正解は、…凛子にもKKにも怒られない最善の選択肢は、彼女を守りつつ一目散に逃げ帰ることだ。
けれども彼女はそれを望んでいない。一寸迷いもしたが、暁人は彼女の願いを優先すると決めた。責任だって負うつもりで。十代にちょっろっと毛が生えただけのガキが負える責任なんて知れてる、だからオマエは甘っちょろいんだ、とKKなら吐き捨てるだろう。それでも。
「これで万が一KKとの仲が悪くなったりしたら、ごめんなさい」
「まさか!」
彼女の手には、いつの間にか白い能面があった。のっぺりとした額と頬。細い目。僅かに開かれた口は緩く弧を描いている。若い女性を表す小面だ。ゆっくりと面を被り、彼女はひとつ深呼吸した。
「暁人さん。お願いします。一緒に戦ってください」
暁人はぎゅっと目を瞑り、開く。胸に湧き上がる恐れや不安を、覚悟と共に飲み下した。
「もちろん」
ボディバックに提げた弓に手をかける。マレビトたちのけたたましい笑声は、もうすぐそこに迫っていた。
暁人とKKには拠点がある。
そしてそこには、仲間がいる。
どちらもごくごく小規模だ。拠点もとい「アジト」は、ネオン街の冴えないアパートの一室。仲間は四人。妹を含めるなら五人。
重ねて言うと、内二人は未成年だ。一人は妹。もう一人は、絵梨佳という少女だ。
仲間といえど、メンバーのそれぞれについて暁人が知っていることはそう多くない。絵梨佳についても例外ではなく、暁人が知っているのは、彼女が満十六歳ということ、動物が好きということ、中でも猫たちとは絆が深いこと、そして彼女自身も猫の化生であるということ。
絵梨佳にはいろいろと複雑な事情があるらしい。加えて、多感な時期でもある。大人びていて気立ての良い少女だが、時折沈んだ表情を見せることがあった。彼女が抱える懊悩は大きく、そして根深くて、他人がそう易々と理解を示せるものではない。
とりわけ、アジト内でも時折表出するのが、『絵梨佳を戦闘に参加させるか否か』という問題だった。
これに難色を示して認めないの一点張りなのが、メンバーの一人である八雲凛子だ。血の繋がりが無いにもかかわらず、凛子と絵梨佳はまるで姉妹のように仲が良い。しかし近いからこそ、相手を想うからこそ、嚙み合わない感情も確かにあるのだ。
このチームに明確なリーダーは存在しない。原点となっているのは、凛子をはじめとした科学者で構成されたオカルト結社だ。凛子や、科学者仲間であるエド・ウォーレンが司令塔となることはあれども、最終的な決定権を持つ人間はいない。必然的に、絵梨佳の立場についてもチームとして方針が定まっていないのが現状だ。
絵梨佳は戦いたいと言う。無論、言葉通りの闘争意欲などではない。その主張は、彼女の持つ使命感や仲間への想い、そして否めない疎外感や自己肯定感への渇望からくるものだ。
凛子は戦わせないと言う。それが、絵梨佳への愛情ゆえなのは言うまでもない。
KKは、「危険すぎることはさせたくない」と言う。そもそもまだ子供だ。当然の意見である。だが絵梨佳の気持ちだって知っている彼は、彼女に戦い方を教えた。
暁人は…どういう立場を取るか、長らく決められないままだった。チームの中では若輩だが、成人はしていて、KKと共に現地調査を担っている。絵梨佳には許されていないことが、暁人には許されている。そこに引け目を僅かにも感じないといったら嘘になる。もう子供ではなく、かといって大人の態度も取り切れない。どっちつかずでは何も決められない。いずれは決めなければならないだろうと思っていた。
その「いずれ」が今日やってきたのだ。
縊死したてるてる坊主、というべき姿をしたマレビト〈照法師〉が、二人を捕捉する。
ケタケタ、ケケケと笑いながら、照法師たちは濁った赤の火球を出現させた。怨念からなる火球は暁人と絵梨佳に狙いを定め、殺意をもって放たれる。
絵梨佳は面の下で瞼を閉じた。その姿が黒い煙に包まれる。見る間に煙は崩れ、少女の形を失くし、大きく…獣の形を取った。長い尾が煙を払う。現れたのは、小面の面を被った巨大な化猫だった。
オオン、と一声鳴くと、化猫に変じた絵梨佳は三本の尾で火球を薙ぎ払った。馬ほどもある化生の出現に、照法師たちが一斉に距離を取る。
(暁人さん、乗って!)
「え⁉」
絵梨佳の意思がテレパシーのように脳内に伝わる。一緒に戦う覚悟はしたものの、年下の少女の背に乗る覚悟まではしていなかった暁人は流石に狼狽した。だが敵は悠長に待ってはくれない。
「…わかった、重かったらごめんね!」
半ば勢いで、化猫の背に飛び乗る。化猫は大きく威嚇の声を上げ、上体を低く下げて走り出す。
(しっかり掴まって!)
暁人は迷い、変化しても身に着けたままのセーラー服の襟を掴んだ。
起伏の激しいビル街の上空を、化猫は軽やかに疾走する。夜風が全身を包み、体の水気を払いながら通り過ぎていく。見下ろすと、街の灯りがきらきらと輝いて見えた。
二人の後を照法師たちが猛追する。浮遊して移動する照法師は、動きが早く狙いを定めにくい上に、暁人たちが足止めに使う麻痺札や露核札がほぼ意味をなさない。マレビトの中でもかなり厄介な敵だ。
(暁人さん、狙えそう?)
「ちょ…ちょっと待ってね…!」
化猫姿の絵梨佳は、人間姿の暁人よりも膂力に優れている。上空に点在する屋上という地形において、浮遊する照法師と対峙するには有効な移動手段であることは確かだ。
だが動物の背に乗るというのは、想像するほど簡単にできる芸当ではない。乗馬の経験も無い暁人が、鞍も鐙も装着していない大猫をすぐに乗りこなすのは無理がある。照法師を迎え撃つどころか、しがみつくだけで精一杯だ。
(ちょっと引き離すね、ずっと追いかけっこじゃ始まらないから)
ぐんとスピードが上がる。馬どころか豹のような加速度で、化猫はコンクリートのタイルを踏み、柵を蹴り、ビル二つ分を跳び越える。肩越しに振り返ると、照法師たちがみるみる後ろへと引き離れていくのが見えた。
(どいて!)
浮遊するマレビトは照法師だけではない。渋谷の上空には、まんまシーツおばけの姿をしたマレビト〈虚牢〉もしばしば出現する。二人の往く手にふらふらと現れる虚牢を、絵梨佳は鋭い爪で切り裂いた。憐れふわふわと浮いていただけの虚牢たちは、相手を認識する間もなく、絵梨佳が通る傍から千々に消滅していく。
照法師たちと距離が開けたことを確認すると、絵梨佳は高いビルの上で一旦停止した。
(ここからなら、どう?)
化猫の背で激しく揺られ続けた暁人は若干息を乱しつつも、再度弓を手に取り、しっかりと矢を番えた。走っている間に増えたのか、七体を越える数の照法師たちが真っ直ぐにこちらへ迫ってくる。けれど射るには充分な距離だ。
暁人やKKの基本的な攻撃手段は、霊的物質である〈エーテル〉をエネルギーに変換し、自身の手指から放つエーテルショットだ。いかな正体が妖といえども、エーテルに適応した〈適合者〉でなければ獲得できない能力である。エネルギー源であるエーテルさえあれば身一つで応戦できるため、武器いらずの能力とも言える。
だがそれとは別に、暁人には常に携帯している武器がある。弓だ。
元はKKが何かしらのツテで、どこかしらの神社から入手してきたものらしい。暁人は未だに、まさか盗品ではないかと疑っているのだが、これが無ければ話にならない場面もあるのでやむなく口を噤んでいる。この弓を用いた暁人の射的精度は、アジト内でも「遠的の達人」とお墨付きをもらうほどだ。
弦を引き絞り、正しい一瞬を逃さずに矢を放つ。空を裂いて飛ぶ矢は、先頭の照法師の頭を貫いた。続けて二中、三中、間隙を置かずに次々射抜いていく。耐久力も高い照法師は、一発だけでは消滅してくれない。それならば何発でも、正確に射続ければいいのだ。こういう思考は、KKに似てきてしまっているかもしれない。
照法師たちの纏う逆さ雨が、再び二人を濡らす頃には、その数は三体にまで減っていた。
「くそ、近づいてきたな」
(また距離を開けよう、掴まって)
不快な笑声と共にこちらを襲う火球を、暁人の土の結界が防ぐ。
走り出した化猫は、屋上から屋上へ飛び移り、やがて大通りに行き当たると細い路地裏へ飛び降りた。
(空を走れたらよかったんだけどな)
「天狗が羨ましいよね、わかるよ」
さすが柔軟性のある猫というべきか、細く入り組んだ路地もなんなく駆け抜けていく。人間姿はともかく、妖怪変化した姿は人の目には映らない。時折すれ違う人々は、傍らを走り抜ける突風に目を白黒させていた。
地上に降りれば降りたで、ひと気のないところに回ればお馴染みのスーツ姿のマレビト〈影法師〉や、女学生姿の〈喜奇童子〉らと鉢合う。それらも、絵梨佳がひとつ強く地面を叩けば、衝撃波により弾き飛ばされる。
(あんまり走り回るのは、良くないね。どんどん増えていっちゃう)
「そうだね。早めに終わらせた方が良さそうだ」
(わかった。上がるね)
とんっと後ろ脚で地を蹴り、化猫は瞬く間に屋上へと躍り出る。二人を見失ってうろうろしていた照法師が、再度こちらを捉えたのがわかった。彼らが二人に近付くよりも早く、暁人の矢が丸い頭を射落としていく。
「こいつで…終わりだ!」
最後の一本が、最後の一体の頭を貫く。しかし致命には至らず、コアを露出させた状態で迫ってくる照法師に、一筋のワイヤーが巻き付いた。
小面の口元が、文楽人形のガブのように大きく割け、口蓋部から伸びた太いワイヤーがコアを捉えていた。絵梨佳はそのままぐぐぐと首を捻り、力任せに照法師のコアを引き抜いた。
(これで終わり!)
絵梨佳の声が聞こえ、化猫はそのまま引き抜いたコアを丸呑みにした。
暁人はぎょっと仰天して、慌てて絵梨佳の背を降りる。
「今、食べた?食べたよね⁉だ、大丈夫⁉苦しくない?毒になったりとか…」
(平気だよ。ただの核だもの。マレビトをそのまま食べたわけじゃないから)
ウルル、と低く化猫の喉が鳴る。けろりとした様子に一安心して、暁人は辺りを見回す。
「…一網打尽だね。すごいよ」
(私は脚代わりになっただけだよ。倒したのは暁人さん)
「絵梨佳ちゃんだってたくさん倒してたけどね」
絵梨佳も適合者であり、エーテルを扱うことができる。だが前述したように難しい立場にいることから、実戦はもちろん訓練も積めていない。今でできる戦い方は、化猫に変化することだけだ。それだけでも充分な気がする、と暁人は密かに思った。
だが本人は、化猫に変化することをあまり良しとはしていない。何故なら、絵梨佳は元々人間だったからだ。
適合者の資質はあったものの、ごく普通の人間として生まれ、そして若くして死んだ。彼女の魂に、猫をはじめとした複数の動物霊が撚り合わさって生き返ったのが、今の絵梨佳だ。妖怪の寄せ集めであるアジトの中でも、彼女の経緯はひときわ異質だ。
(暁人さんや、KKみたいに戦いたいの。みんなのために…)
「焦らなくてもいい。KKも言っていたけど、君は強いよ。ただ、若い子を守るのは大人の義務なんだ」
(…わかってる。そうだよね)
化猫は肩を落とした。その体躯が黒い煙に包まれ、少女の姿へ戻る。
暁人を見上げ、絵梨佳は微笑んだ。
「無茶を聞いてくれて、ありがとう。暁人さん」
「どういたしまして。じゃあ、帰ろうか。濡れちゃったし、このままだと風邪引いちゃうかも…」
暁人の言葉が途切れる。何事かと暁人の視線の先を追った絵梨佳も、それを見て固まった。
浮遊するマレビトは三種類いる。
ひとつは虚牢。数は多いが、動きが遅く耐久力も低いので、比較的倒しやすい敵だ。
ひとつは照法師。たった今相手取ったように、少々手強い難敵だ。
そして最後のひとつは。
「マジかよ…」
小さく呻く。
二人が立つビルの屋上。その傍にある道路の街灯に、寄り添うようにマレビトが浮遊している。照明部分のすぐ側、つまり暁人たちのすぐ側だ。黒髪を振り乱し、白い頭がこちらを向いた。そこに顔は無く、恐ろしい歯が並んだ巨大な口だけがぱっくりと開いている。ぼろぼろのシャツと赤いスカートを身に着けているが、両脚は無い。代わりに、ぞっとするほど痩せ細った両腕が、不気味に長く伸びている。
〈髪姫〉だ。
数いるマレビトの中でも、かなり凶悪な部類に入る。それが、すぐ側に二体もいた。隠れる間もなく、彼女たちはこちらを捕捉する。
――これはさすがにまずい。
大立ち回りを演じた後なのだ。二人共消耗している。応戦などしたらただでは済まない。
「…逃げよう!」
絵梨佳を背に庇い、撤退を促した瞬間。
目の前の髪姫が爆発した。
「うわっ⁉」
吹き上がる熱気に思わず顔を覆う。いや違う、爆発したのではなく、誰かが髪姫に攻撃したのだ。
それができる人物を、暁人は自分の他にまだ一人しか知らない。
「――よお、やんちゃ坊主。門限過ぎてるぜ」
もう一体の髪姫も、火のエーテルをまともに喰らって叩き落された。恐る恐る道路を見下ろせば、予想通り、見慣れた中年がこちらを見上げて仁王立ちしていた。
「うわ…KK…」
「何がうわ…だ。とっとと降りてこい」
親指でビッと背後を示される。よく見れば、KKの後方にバイクが停まっている。重低音でエンジンを吹かすそのバイクの傍らには、メットを被った女性が立っている。凛子だ。どうやらアジトからここまで、タンデムでかっ飛ばしてきたらしい。
「絵梨佳もいるな?よし。無事ならまあいい。お叱りは帰った後だ」
「やっぱり叱られるのか…」
「褒められると思ってたのか?」
「そういうわけじゃないけどさ」
暁人は肩を落とした。振り返って、気落ちした表情の絵梨佳に笑いかける。
「予定通り、一緒に怒られようか」
絵梨佳はぱちりと瞬きして、破顔した。
「うん、ありがとう」
とりあえずは、相棒と一緒に髪姫を片付けることからだ。
断りを入れて絵梨佳の体を支えつつ、暁人はビルから飛び降りた。
0コメント