【GWT】狐、鬼 2
イヌ科の動物は、チョコレートやネギを食べてはいけない。
チョコレートは含有するテオブロミンが、ネギ類はアリルプロピルジスルフィドがすなわち毒となる。
では暁人はどうか。どちらも普通に食べられる。
だがもし、それらの食物を食べてすぐに、狐の姿に戻ってみたらどうなるか。試したことは無い。試してみる気も無い。
いやそもそも、自分があのしなやかですばしっこい、一匹の雄狐の姿でいたのは一体いつのことだったろうか。その記憶すらも朧げだ。自分を人間の一人だと思えば思うほど、狐という自負は遠ざかるようだった。
ただの狐と化け狐の違いは何か。答えは単純だ。化ければ化け狐だし、化けなければただの狐なのだ。
その基準で言えば、暁人は殆ど生粋の化け狐だった。
人間と同じように育った。学校に通って義務教育も受けた。受験もして大学生になった。アルバイトをして金も稼いでいる。生まれてこの方、ヒトの群れの中で、ヒトとして生きてきたのだ。
では人間と、化け狐を隔てるものは何か。考えるまでもない。
両親は、初めはただの狐だった。だがやはり、化けることを選んだ。子どものためだ。
開発され尽くして、添え物のパセリのようになってしまった野山。不法投棄のゴミが散乱する林。街中の、藪に呑まれた廃屋。子を身ごもった狐の番が、狐として生きることに見切りをつけるには充分な環境だった。
やがて産まれた兄妹は、自分を人間と思い込めるくらいの化け狐になった。
山や林や森の匂いを知らない。肉球のある素脚で土を踏むことを知らない。牙を剥いて小動物を狩ることを知らない。巣穴の暖かさを知らない。代わりに人間として生きる術と、情報と、苦楽とを知っている。
狐らしいところといえば、本当に狐であるという、ただその一点だけだった。
少し前までは。
暁人は空を振り仰いだ。細く光る雨が、煌々と明かりの灯るビルを包んでいる。
その屋上を睨み、意志を込めて左手をかざす。すると遠く視線の先に黒い靄が生じ、ガアという声と共に一体の烏天狗が現れた。間髪入れず霊力のワイヤーを伸ばし、天狗に繋ぐと、数秒後にはもう屋上の柵へ足をつけていた。
「いつもありがとう」
短く礼を言うと、天狗はまたガアと鳴いた。
翼を持つ彼らには何度世話になったか知れない。もっと礼に時間を割きたいところではあるのだが、今夜もまた例に違わず忙しいのだ。挨拶もそこそこに、暁人はすぐさま走り出した。
向かいの柵を乗り越え、すぐ隣のビルへ飛び移る。外階段を上がり、給水タンクをよじ登り、渋谷の街の上空を疾駆する。ちらりと見下ろしてみると、地上では相棒が同じくダッシュしていた。
「待て、このっ!」
そんな声も聞こえてくる。彼の数メートル先をおちょくるように浮遊しているのは、禍々しく赤黒い靄を纏った人魂だ。鷲掴みにしようと伸ばされたKKの手をすり抜け、人魂は夜のビル街を逃げ回る。暁人の優れた聴覚は、遥か下のKKの舌打ちも聞き取ってくれる。
「暁人ぉ!」
KKがこちらを見上げて叫ぶ。キレ気味だ。ずぶ濡れになりながら、散々いたちごっこをさせられればそうもなる。暁人だって若干堪忍袋の緒が切れそうだ。
「僕は上から追跡する!できる限り人の少ない方に追い込んでくれ!」
「おい無茶言うなよ!」
文句を吐きつつも、KKはすぐに右手に風のエーテルを纏った。放たれたショットは、ほどよく人魂をかすりつつ行く手を牽制する。攻撃はしてこないものと高をくくっていたのだろう、人魂は一転して怯えたように揺らぎ、猛スピードで逃げ出した。
「いい加減に観念してくれよ…」
暁人は目を眇める。知らず、瞳孔が細く伸び、光彩が琥珀色に染まる。狐の目だ。見た者がいれば驚いただろう。人間に起こるような変化ではない。
鼠のように逃げ回る人魂をしっかりと捉え、暁人は再び駆け出した。
「くそ、どこ行きやがった!」
腹立たしそうなKKの声が聞こえる。肉体という縛りのない人魂は、ごみごみした街中も縦横無尽に動くことができる。だが肉体という拠り所をも失い、魂は穢れ、自我は薄れ、怨念を振り撒くだけの悪霊と化していく。そうなればもう、祓ってやるしかないのだ。
降りしきる雨の中でも、その臭いはよくわかる。焦げ臭くて鉄臭い。鼻の奥にこびりつくような不快な臭いだ。
「まずい、団地の方に向かってる!」
「はあ⁉くそがっ」
遮蔽物の多い地上では、浮遊する人魂を追い続けることは困難を極める。それでも、穢れた人魂によって一般人に影響が出ないよう、KKは粘り強く追いかけ、時に牽制し、誘導を続けてくれている。
暁人は逃げる人魂を睨み、走りながら思考する。そして、閃いた。一旦急ブレーキをかけ、地上へ呼びかける。
「KK!」
「なんだ!」
「霧が丘公園に誘導してくれ!先回りする!」
返事を待たず、暁人はボディバックから御札と形代を取り出した。
そして目を瞑ったかと思うと、その姿は霧のように揺らぎ、消え失せた。
「手のかかる相棒だぜ、全く!」
言うだけ言って、暁人の気配は忽然と消えてしまった。
何かしらの考えがあるのだろうが、共有する余裕が無い。暁人と違い、KKは優れた視覚も嗅覚も持っていないのだ。逃げ惑う人魂を追い続けることで精一杯だ。
だが、暁人はKKを信じて任せてくれた。ここでまんまとホシを逃すようでは、KKのあらゆる矜持に傷がつく。
「やるからにはきっちり成功させろよっ」
体力と執念深さには自信がある。何せ鬼なのだ。
走りながら手近にあったエーテル結晶体を破壊し、エーテルを補給する。ぐっと右手を握り、顔を伝う雨で口を湿らせた。横道へ逸れようとする人魂へ、もう何発目かわからないエーテルショットを撃ち込んでやる。
「ほら、消されたくないんなら逃げろ逃げろ!」
怒りか恐怖か。人魂はぶるぶると震え、またびゅっと逃げ出す。北へ北へ。
商店街の裏手を抜け、ウロのある大木の前を通り過ぎ、高架下の川の上を飛んでいく。見えてきたのは古い団地だ。できることなら人の居住地に連れて来るのは避けたかった。KKは口元をひん曲げる。
川を越えると、どこからかリン…と鈴の音がした。人魂はその音に反応し方向を変え、音の発生源へと向かっていく。不思議な音だが、KKにはわかる。本物の鈴ではなく、自分たちが使う〈媒鳥札〉の発する音だ。
人魂は鈴の音に引き寄せられ、やがて木々に囲まれた公園に入り込んだ。そこは何の変哲もない、真ん中に存在感のある大きな遊具があるだけの狭い公園だ。しかし、遊具の傍に佇む人影を認め、人魂はまたぶるぶる震え出した。
(オオ……オ…)
人影は女性だった。雨の中、何をするでもなくぼうっと立ち尽くしている。
彼女を見た人魂は、ぼやけてその形を失くしたかと思うと、ぶわりと広がり人型となった。両目を爛々とぎらつかせ、赤黒い怨嗟の炎をまとった、まさに悪霊そのものの姿だ。
(オオオ…!)
悪霊は虚ろな叫びを上げながら、女性に掴みかかる。
荒々しく肩を掴まれた女性は柳の葉のようによろめき、押されるがまま倒れる。だがその顔をようやっと正面から見た悪霊は、女性の目がガラスのように無機質であることに一寸遅れて気が付いた。
その瞬間、ふっと女性の姿が掻き消え、一枚の形代がひらりと残る。そしてその裏から、〈麻痺札〉と書かれた御札が落ちた。
「かかったね」
バチッ‼と激しい放電が起こる。御札から放たれた力が小さな結界を作り、悪霊を捉えてバチバチとその身を締め上げた。
(アアアァ…‼)
苦悶する悪霊の前に、御札を構えた暁人が現れた。公園の入り口で息を切らすKKを確認し、小さく微笑むと、容赦なく悪霊に御札を叩き込んだ。
「悪いけど、おわりだよ」
(ナンデ…オオ…)
喋る間も与えず、印を結ぶ。解呪の力を放つと、悪霊は尾を引く断末魔を上げ消えていった。
穢れも消えれば、そこは元通り、何の変哲も無い夜の公園だ。
「…疑似餌に、トラバサミ…いや、誘蛾灯か?やるねぇ、暁人くん」
「咄嗟の思い付きにしては上等だろ?」
一息ついた暁人に、KKが歩み寄る。二人はにやりと笑みを交わし、軽くハイタッチした。
「事前情報のおかげで、上手く化かせたよ。あの姿だったら、食いついてくれるんじゃないかと思ってね」
「あの姿…。…ああ、なるほどな。奴さんの元恋人か」
「恋人じゃない、被害者だ」
暁人は憤慨して吐き捨てる。
今回の相手は厄介だった。悪霊は今まで数え切れないほど祓ってきたが、大概は死後も何かに縛られている。いや縛られているのではなく、執着しているのだ。その対象は場所であったり、人であったりと様々だ。悪霊は執着するものから離れることはない。だから、寄ってきたマレビトの討伐に苦戦することはあっても、悪霊の浄化自体に手間取ることはなかった。
しかし今回の悪霊は違った。何せ生前は、悪質な通り魔だったというのだ。街全体を活動場所としていたその男は、獄死した後も街に出没し、人に怪我を負わせては悦に入っていた。また岡惚れした女性を暴力で脅し、交際関係を強制してもいた。死後もその女性につきまとい、呪いを振り撒いて不幸を呼び寄せていたのだ。
憔悴しきって痩せ細った女性の姿を思い返し、暁人はぐっと拳を握る。もう少し早く知ることができていたら、あそこまで衰弱する前に助けられた筈なのだ。
KKはそんな暁人の肩をぽんぽんと叩く。
「まあ、もう奴はいないんだ。オマエが地獄送りにしてくれたからな。これで少しずつ良くなっていくさ」
「ああ…。ごめんKK、今度はさすがに疲れたでしょ」
「少しな。だが、鬼のスタミナ舐めるんじゃねぇぞ?」
濡れ鼠になりながらも、KKはからりと笑んだ。見た目は若干不健康そうな中年なのに、もう息を整えて平気で立っている。相当な距離を休憩無しで走り続けたのだから、普通の中年なら小鹿のように崩れ落ちているところである。
「そういや、なんでこの公園だったんだ。わかりやすいからか?」
「それもあるけど」
暁人は振り返る。小さな公園には、遊具とベンチと、それと古めかしい屋台しかない。
ぽつんと灯りのついた屋台に人の影は無く、代わりに二又の尾を持つ猫…妖怪猫又がふよふよと浮きながら店番をしていた。二人の視線に気づくと、猫又はにぁーんと鳴いてぺこりとお辞儀した。
「猫又が店をやっているところなら、近道ができるんだ」
「近道?初めて聞いたぞ。そんなもんがあるなら早く言えよ」
「仕方ないだろ。KKは使えないだろうし、二人で行動する時は必要ないと思ってたんだよ」
「オレは使えない?なんでだ」
暁人はしばらく考え、やがてこう答えた。
「…獣道、だからかな。多分」
KKは胡乱気な顔をしていたが、何かを思い出して得心したようだった。
「そういえばオマエ、いないと思ってたら、急に変な所から出てくることあったな」
「猫又がいる場所と、神社とかにはすぐに行き来できる。少し遠い所に行くときに便利だよ」
「動物の化生だからってか?羨ましいぜ」
「別に神使ではないんだけどね」
ただの化け狐だ。
普通の道とは違う、おそらく動物妖怪だけが通れる、獣道。コンクリートで覆われたこの街にもそれはある。人の目には決して触れることなく、密かに張り巡らされたその道を通って、猫又や狸たちは街を往くのだ。
暁人は化け狐である。だがほんの数か月前まで、渋谷の獣道を使ったことはなかった。積極的に使うようになったのは、KKたちと行動を始めてからだ。
彼らと共にいると、人間という化けの皮に隠され続けた狐の性が、だんだんと表出していくようだった。戸惑うこともあるが、今まで意識もしていなかった自分を知り、思うままに動くのは、妙に清々しい心地なのだ。
「本当にオレは通れないのか?帰りくらいは楽させてくれよ」
「ええ?…じゃあ、試してみようか。せっかくだしね」
右手を差し出す。KKは差し出された手を見てひょっと片眉を上げて、にやりと笑った。ためらいなく同じ右手が重ねられ、ぐっと力強く握られた。
そして同時に目を瞑ると、二人の姿は幻のように消え失せる。
公園に残ったのは、にこやかに笑う猫又だけだ。猫又は愉快そうにくるりと回り、にぅ~と鳴いた。
(いつ見ても仲が良いねえ)
後日、アジトで調査報告をすると、仲間の一人である絵梨佳が拗ねてしまった。
「私も手助けできたよ、きっと」
絵梨佳も暁人と同じく、動物の化生である。彼女の助力があれば確かにより素早く確保できた可能性はある。しかし、彼女の同行については何かと難しい点もあるのだ。暁人は妹の麻里と一緒に、一生懸命彼女を励ますしかなかった。
そんな若人たちの傍ら、暁人の同伴という条件付きではあるが、近道ができるようになったKKはひとり上機嫌で、報告書を作成するのだった。
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