【GWT】狐、鬼
東京都渋谷区は、輝かしきスクランブル交差点。
人混みと音と光とが、雑然と寄り集まるその場所を、二つの影が見下ろしている。
「ちょっと疲れてるんじゃない?」
「んなことねぇよ、生意気言いやがって」
一人は青年で、一人は中年だ。だがその背格好は非常にそっくりで、顔を見なければまるで兄弟のようだった。高いビルの屋上で、二人は並んで柵にもたれかかり、行き交う雑踏を眺めていた。
「いつもより人が多い気がするな」
「そうか?オレは少なく見える」
「KKって、渋谷は長いんだっけ」
「オマエよりはな」
なんてことない会話を交わしながら、二人は夜風に意識を向ける。
この街の夜は気配に溢れている。だが高い場所であれば、上澄みのごとく多少なりとも空気は澄む。青年は整った鼻を上向かせ、匂いをかぐ仕草をする。
「暁人、どうだ」
「…臭いがいつもより強い。急いだ方がいいかも」
中年の男、KKは柵から離れ、こきりと肩を回した。骨ばった手首につけられた三つの数珠がじゃらりと鳴る。
「行くか。とっとと見つけるぞ」
「OK」
青年、暁人もぐっと腕を伸ばし、体をほぐす。昼も普通に活動しているのだ。心身の具合は考えなければならない。だが疲労などはおくびにも出さず、二人は暗いビル影へ身を躍らせた。
鬱蒼とした木々の間を、ふらふらと動く人影がある。
それは靄の塊のようで、ぼんやりと青く、目鼻立ちも定かでない。かろうじて若い男性であることだけがわかる。幽鬼のようにうう、うう、と呻きながら、青い影は暗い森をさまよう。
「大丈夫?」
突然に、柔らかい声がかけられた。
力無く顔を上げる影は、いつの間にかそこにいた二人の男に気付く。一人は端正な青年で、もう一人は不精髭の中年だ。同じ服を着ているので、何かの仕事中だろうか。影はしばらくぼうっと呆けて、それから自分に話しかけているのだと気付いて、にわかに声を張り上げた。
(おっ……おれが、わかりますか)
必死なその声は、まだ年若かった。十代後半頃の少年だろうと思われた。青年は優しく微笑む。
「うん、視えるよ」
力強い肯定に、少年はまたうう、と呻く。しかしそれは先程までとは違い、涙混じりの感嘆だった。
(よかった…!うう、よかった……)
安堵のあまり崩れ落ちそうになる少年を、力強い声が励ます。
「安心しろ。すぐ、ここから出してやる」
中年男の手が、少年の肩をぽんぽんと叩いた。最後に人に触れたのはいつだろう。ひどく長い間、この森にいた気がする。なにもわからなくなってしまうほど。体の芯まで染みついた恐ろしい寂しさが、ささやかな体温でじわりと溶けだしていく。
(お、おれ、気付いたらここにいて、帰りたいのに…出られなくて)
嗚咽を堪えつつまくしたてる少年を、青年が宥める。
「もう大丈夫だよ。僕たちと一緒に来て」
少年はもう声も失い、こくこくと頷く。やっと、このうら寂しい森から出られるのだ。誰も助けてくれなかった。どれだけ叫んでも、誰の耳にも届かなかった。すぐそこに人の行き交う道路が見えていたのに、どうしてか出られなくて。わからなくて。恐ろしくて、寂しくて。
ほろりと青白い涙を落とした時、不意に男たちの表情が険しくなった。
油断なく辺りを見回し、物々しい雰囲気で身構える。涙と洟が止まらない少年は、彼らの突然の変化に戸惑った。だがやがて彼の耳にも届いた。こちらへ向かってくる、いくつもの足音が。
(なっ……なに?なんだ?)
「木の影に隠れていて」
青年が彼を背に庇うと同時に、夜の木立の中に、黒い男たちがにじみ出るように現れた。まるでシュルレアリスムの絵画のように、男たちは同じ背丈、同じスーツ、同じ傘を差して、同じ歩調で三人に接近してくる。
(うわぁ!)
スーツ男の一体が二人に迫る。間近で見たその白い顔は、口だけがにたりと笑うのっぺらぼうだった。スーツ男が長い腕を振りかぶった瞬間、痩せぎすのその体が弾き飛ばされた。
(え…な、なに?)
目の前を、緑色の光が過る。周囲の空気が動き、風となり、光を纏って青年の右手に集まっていく。揃えた二本の指先に宿された風の力は、追撃する弾丸となってスーツ男を撃ち抜いた。よろめく男の胴体がガラスのように割れ、不気味な結晶体…〈コア〉が露出する。
青年の左手が素早く動いたかと思うと、指から放たれた光のワイヤーが瞬く間にコアに絡みつく。青年はぐぐぐと力を込め、ばきりとコアを引き抜いた。コアを失ったスーツ男は、光の粒子となり消滅する。
少年は恐怖も忘れ、鮮やかな技に魅入った。青年は次々にスーツ男たちを撃ち抜いては、露出したコアをまとめて引き抜き霧散させる。
と、他方でドンと重い爆発音が響いた。
火の粉と熱風が頬に吹きつけ、周囲が激しい炎に照らされる。
(え、ええ!?)
森の中で爆発!?と魂消て見やれば、そこには中年男の背があった。
彼が両手を構えると、火気が集まり、凝縮し、燃え盛る火球となって火の粉を上げる。放たれた火球は爆炎を起こし、スーツ男たちの体を砕いた。凄まじい熱気だが、不思議と清らかなその炎は、草木や枯葉を燃やすことはない。
(な、なんだこれ…)
「とにかく、隠れて!こいつらの狙いは君だ!」
青年が叫ぶ。
いくら消滅させても現れるスーツ姿の化け物たち。目は無い筈なのに、その視線が全て自分に向いていると、少年は今やっと気づいた。そして腹の底から怖気立った。
「暁人!」
「わかってる!」
中年男と青年が鋭く声を交わす。
木立の奥から、今度は別の敵影が躍り出てきた。スーツ男たちよりも軽快に動くその姿は、首無しの女子高生と男子学生だ。
(ひぇっ…)
少年はついに怯え切って、木の幹に縋りつく。
二人の男は少年を守るように立ち、人型の化け物たちと対峙する。青年は懐から弓を取り出して矢を番える。中年男は火や水の力を自在に纏って、化け物の体を砕いていく。つい先程まで不気味な夜の森だったのが、とんでもない、見たこともない乱戦の場となってしまった。
何が起きているかさっぱりわからない。自分はどうしてこの森から出られないのか。あのスーツや学生姿の化け物たちはなんなのか。あの男たちは誰なのか。
だが目が回りそうな混乱と恐怖の中でも、戦う二人の背は鮮烈に見えた。自分を助け、守ってくれているのだと、強く伝わってくる。どれだけ化け物が湧こうが怯むことなく応戦を続け、少年の傍まで迫ってきた化け物は、すぐさま強烈な打撃を受けて光と散る。
やがて最後に出てきた、赤い傘と鉈を持った女が、頭を射抜かれ胴に火球を喰らう。剥き出しになったコアを、二対のワイヤーが絡め取る。
「「とどめだ‼」」
彼らの声が重なる。ばきりとコアが引き抜かれ、砕け、女は不協和音を上げながら消滅する。
後に残った錐体が、すうっと二人の体に吸い込まれると、森は再び暗さと静けさに沈んだ。
「無事かな?」
(は…はい!)
少し息を弾ませた青年が、少年に手招きする。木の影から飛び出した少年は、二人が無傷なのを確認してほっと息を吐いた。
(あ、あの…さっきのは…)
「〈マレビト〉っていうバケモンだ。とにかく余計なことしかしねぇ。あいつらは、お前みたいなのを狙うんだ」
(おれみたいなの…?)
それはどういうものだろう。自分はどういうものだろう。どういうものだったか。森の中で困っているうちに、いろんなことがぼんやりとしてわからなくなってしまった。
「さあ、帰ろうか」
徐に、青年がぱちりと指を鳴らした。すると、ぽっと傍らに燈篭のような灯りが点る。ぽっぽっと灯りは連なって、道をひとつ示した。ここに燈篭なんてあっただろうか。なんとも妙だが、ゆらめく灯りはとても穏やかだ。
中年男が声もかけずに歩き出す。青年はぶっきらぼうな態度に肩を竦めてから、少年に「行こう」と言ってくれた。青年に促され、少年は男の背を追う。
(…えっと…。聞きそびれたけど、あなたたちは…?)
「ん?僕たちは…そうだな」
「血の気が多い拝み屋ってところだな」
「それはKKだけだろ」
よくわからないが、霊能力者のようなものか。そう言うと、青年は困ったように笑い、中年男は可笑しそうに喉を鳴らした。正解ということだろうか。本当にそういう人たちがいるんだ、と少年は内心興奮した。
やがて頭上の梢は薄くなり、街灯りが近くなる。いくら帰りたくても帰れなかったそこに、少年はあっさりと歩を進めた。足の裏が石畳を踏む。
そこは夜の神社だった。見上げれば遮るもののない夜空が見えた。社務所には人の気配がある。本当に出られたのだ。
(出れた…出れたんだよな…?)
「そうだよ。君はもう自由だ」
夜風に浚われ、頭が冴えていく。自分は誰か、今ははっきりとわかる。
(帰んなきゃ…、帰んなきゃ!家に連絡入れてない!)
「それなら大丈夫だよ。ほら」
青年が指差す方には、二人の男女が立っていた。鳥居のすぐ外で、こちらを見つめ、口元を押さえている。少年は驚愕し、それから弾けるように駆け出した。けれど途中で慌てて立ち止まり、青年と中年男を振り返る。びしっと九十度のお辞儀をして、叫んだ。
(よくわからないけど、ありがとうございましたっ‼)
二人は顔を見合わせてから、笑ったり頭を掻いたりしていた。
少年は再び駆け出して、男女に駆け寄る。もうその顔がはっきり見えた。涙ぐむ顔が。
(父さん母さん!遅くなってごめん‼)
駆け寄ってきた少年を、夫婦は掻き抱く。
その瞬間に、少年の体は解けるように淡い光となり、空へと消えていった。
遊び半分で森に入った息子が、崖から転落して亡くなった。
それ以来、森でさまよう人影を見たという噂が絶えない。きっと息子だから、連れて帰ってきてほしい。
それが今回の依頼だった。
「あそこは禁足地だからなぁ。下手に入り込んだらとんでもねぇことになる」
「入った時にはもう、出られなくなってたのかな。それで迷って、崖から…」
「そうかもな。仏さんが見つかっても、魂は出られないまんま、って訳だ」
アジトへの帰路につきながら、KKは煙草を吹かす。歩き煙草…と暁人から冷たい視線が注がれるが、素知らぬ顔だ。ひと気の無い夜道でなければ、火をつける間もなく奪い取られていただろう。
二人が依頼を受け、森の中を探索すること数日。気配は感じるのに、まるで何かが食い違っているかのように、その姿を捉えることは困難だった。
「ただ迷ったんじゃねぇ。神隠しだ。一筋縄じゃいかねぇよ」
さまよう魂は、〈マレビト〉の格好の餌食となる。奴らより先に息子を見つけることが急務であったが、ぎりぎり間に合ってくれた。
「怖かっただろうな」
「そうだな」
依頼人の夫婦は第六感も何も無い、普通の人間だ。だがあの時は波長が重なったのか、我が子の声と足音を聞き取ることができたらしい。息子の成仏を悟った夫婦は、涙しながら暁人とKKに感謝した。ようやく、あんな暗くて寂しい森から出してあげられた、救ってくれてありがとう、と。
「あんなに拝まれちまったら、却って居心地が悪くなるぜ」
「失礼なこと言うなよ」
「仕方ねぇだろ」
KKがふーっと煙を吐く。その唇の隙間から、ちらりと尖った牙が覗いた。街灯が途切れ、寸の間表情が闇に包まれたかと思えば、その額に一対の角が現れる。まるで鬼のように。
「拝んでた相手が、人じゃないんだからな」
あっさりと言うKKに、暁人は呆れてため息を吐いた。
「なら僕もだろ」
外見は全く普通の青年、の腰に、ゆらりと大きな尻尾が現れた。黒い毛が混じった小麦色の尻尾。まるで狐のような。尻尾はしばらく歩に合わせて揺れて、すぐにすうっと消えてしまう。
「人じゃなくても、こうやって人を助けることはできる」
「ああ、そうだな」
KKの相槌はどこか投げやりだ。酸いも甘いも嚙み分けた大人だから、暁人よりも世の中をよく知っているのだろう。それを承知の上で、暁人はそんな相棒の態度がちょっと気に入らない。無頼漢ぶってなんかいるが、実のところ、その胸には誰より強い正義感がある。暁人はそれを知っている。
「はー、一仕事終えたら腹が減るな。どこか寄るか」
「それもいいけど、戻ったら何か作ろうか?材料余ってたし」
「無理すんなよ。さっきからハラペコだってクークー鳴ってんの、聞こえてるぜ」
「地獄耳」
「鬼だからな」
KKはにやりと笑い、近づいてくる飲み屋街の灯りを楽しそうに顎で示した。その額にはもう何も無い。角なんておかしなものは生えてない、全く普通の人間ですよという顔をして、KKは煙草を吹かす。
それは暁人も同様だ。
尖った耳もマズルも、ピンと張った髭も尾も、もちろんふかふかの毛皮なんかも無い。ヒト科ヒト亜科ヒト族の一般的なオスですよと全身で示しながら、暁人はKKの後を追って夜の街灯りに溶けていく。
さも人のような姿をしているが、その正体は、化け狐と鬼。
彼らはこの渋谷の街で、日々怪異の退治に勤しんでいる。
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