【GWT】祟り屋と暁人くんの話②


 あの夜から十年経つ今も、暁人の手元に残る物がある。

 まず家族の形見である指輪。

 そして数珠に、数枚の御札、狸の御守り、猫のキーホルダー。

 それから、KKの調査資料の複製。


 自室で暁人はひとつの箱を開く。

 あの霧の夜の名残だ。

 朝陽の差す渋谷の街へ戻ったその後、暁人は妹の葬儀を上げ、自らの暮らしを改めた。そして粗方のことを終えて、ひとりで新しいスタートを切ろうという時に、最後のけじめとしてこの箱に思い出を収めていったのだ。

 恐ろしく、絶望的で、理不尽で、けれど――眩かった、あの夜は終わった。利用され消されかけていた数十万の魂は体を取り戻した。去るべき運命にあった人達は、安らかな場所へ去っていった。その記憶を、噛み締めるように。

 それから転居を重ねるうちに、箱はいつしか棚の奥にしまい込まれていた。

「…懐かしいな」

 あの日の渋谷で、暁人の助けとなってくれた様々なものたち。電灯の下、風術珠の薄い緑がつるりと光る。不思議と今でも新品同様の御札。そして、二十冊あまりの青いファイル。

 生前のKKが書いた、怪異の調査資料だ。

 KKは刑事だったが、同時に霊や魂を調査するチームの一員でもあった。このファイルには、彼が経験した様々な怪異や噂の調査報告が綴られている。KKの口調がそのまま反映されているので、報告書にしてはかなり砕けた文体だ。

 けれど内容は簡潔で、依頼の内容から調査結果までの経過がわかりやすい。いっそユーモアさえある。イラスト付きのものまである。このイラストがまた、味があるというか。ひとつひとつを確認しながら、暁人は少し笑った。笑った拍子に涙が出た。

 しかし、今日この箱を開いたのは思い出に浸るためではない。

 目元を拭い、暁人は真剣な顔で目当てのファイルを探す。

「…あった。これだ」

 『忌み返し事件』

 祟り屋に関する調査資料だ。

 現時点で暁人が確認できる情報はこれしかない。心もとないが、読まないよりはマシだろう。

 

 ○


『やはり、エーテルの力が備わっているようだ。…戻った、と言った方がいいのかな。KKの魂と融合することが条件とはいえ、君自身の意思で制御が可能だったんだからね』

 久しぶりに会ったエドは、ひとしきり暁人の身体を検査した後、そう結論付けた。

『聞いた情報から判断するに、祟り屋に祟られ、接触したことがきっかけと見て間違いないだろう。仕組みはまだよくわからないが、僕なりに調べを進めるよ。あれから随分経つ。またこの街で調査ができることを嬉しく思う』

 本人は無表情でレコーダーを再生している。記憶にある彼は大体そうなので暁人は気にしない。生来人間嫌いのようだし、エドと暁人はそこまで近しい関係でもない。だがあの夜の記憶を共有している数少ない同士だ。切れ切れながらも、相互に連絡を取り合っていたのが今回幸いした。

『マレビトもまた見えるようになってしまったんだろう。これまで危険は無かったかい』

「基本的には、気付いていないフリをしていれば大丈夫みたいです。街中の目立たない場所にいるのをたまに見かけるくらいなので」

『あの夜にかけて異常現象が増えていただけであって、マレビトは本来、街中を堂々と歩き回るような存在ではない。無視をするのが最善だろう。わざわざ戦いにいく必要もない。だが万が一のため、身を守る物は持っていた方がいい』

 相変わらず、こちらの発言を幾通りも予測してレコーディングしているようだ。エドはいくつかの紙束を暁人に差し出す。

『御札だ。それと、融通の利く神社への連絡先だね。何かあったら頼れると思う。大したことができなくて申し訳ない。それと、君はまだ数珠をいくつか持ってるだろう?今ならそれらもより効果を発揮するはずだ。くれぐれも、危険には近付かないように』

 少しの間を置いて、またレコーダーが再生される。

『あくまで僕の願いでしかないが、君は死なないでほしい。散々言われたのだろうけどね。僕にとっては、凛子やKK、絵梨佳のことを話せる数少ない人間なんだ』

 再生が終わると、エドはくるりと背を向け、機器類の相手に戻ってしまった。

 彼が来日中に仮宿としているアパートの一室で、暁人は自分の右手を見る。ぐっと握りしめ、開いてから、指を二本揃えて集中する。

 すると、すぐに緑のきらめきと共に、風が指先に集まりエネルギーとなった。このまま振り抜けば、あの夜のようにエーテルショットが放てるだろう。

 エドの話では、かつてのように力を得る機会があれば、火と水のエーテルも使えるようになるだろうとのことだった。

 けれど今、その必要は無い。般若面の男はもういないのだ。マレビトは人間がある限り常に発生し、尽きることはない。戦う理由も、メリットも無い。

『最後にひとつ』

 礼を言って出ようとした暁人の背を、エドの声が追ってきた。

『祟り屋にはくれぐれも気を付けてくれ。彼らは予測不可能だ』

「…はい。もちろん」

 殺されかけたのだから、言われるまでもない。



『しかし』

 黒装束の後ろ姿が言った。黒い棒を巧みに操り、迫りくるマレビト・影法師を打ち伏せていく。

『視えてしまうものを、視えないようふるまうのも難しい。そうだろう』

 暁人は苦々しくその背をねめつけた。殴られた頭が痛む。

(おにいちゃん…)

 不安そうな声と共に、きゅっと服を握られた。暁人は振り返り、笑顔を作って見せる。暁人の服の裾を掴む幼い少女は、いまにも揺らいで消えそうな、青く透き通った体をしている。

 …幽霊だ。

「大丈夫だよ。安心して」

『優しいことだ』

 またざらついた声が横槍を入れる。暁人はぐっと奥歯を噛み締め、ふらふらと立ち上がった。震える右手を構え、風のエーテルを集中させる。

 暗い灰色のビル群に取り残された、うら寂しい空き地。暁人は少女を連れて散々逃げ回った挙句、ここに追い込まれてしまった。

 眼前には、次々と湧いてくる影法師の群れ。

 そして、彼らを相手取る祟り屋の棒術使いの姿がある。

 幸せに、平穏に生きるために、関わらない。その筈だった。

 暁人は震える息を吐いた。自分への呆れが苦く胸に溜まる。あの夜から十年も経つのに、暁人はほとんど変われなかったらしい。

 自分の平穏を守ることは、即ち無情であることだ。

 この世には常に苦痛と絶望がある。それは、視界の端には必ず映る場所に存在している。例えば道路を挟んだ向かい側に、飛び乗った電車の隣の車両に、ふたつ隣のビルのオフィスに、斜め向かいのマンションの二階に。

 知ってしまったのだとしても、自分の安全を守りたいのなら見て見ぬふりをするのが最も利口だ。世間とはそういうものだと折り合いをつけて、自分にできることとできないこととを弁える。

 きりがないからだ。

 暁人もそうするつもりだった。夭折した妹の分まで、どれだけ辛くとも最後まで生き抜く。それが暁人の誓いだ。社会に出て十年経ち、それなりの苦労や理不尽も経験した。今ではある程度の折り合いもつけられるようになった。心は痛むが、自分の人生を守るため、何を視ても知らぬ存ぜぬを貫くつもりだった。

 けれど、暁人にしか聞こえないのだ。

 暁人にしか視えないのだ。

 助けられるのは暁人だけなのだ。

 既に体を持たない人たちに、手を差し伸べられるのは暁人だけだ。

(KKなら、)

 かつての相棒ならどうしただろう。

 世慣れした男だった。信じられないくらい冷たい言葉を吐く時もあった。きっと彼は、人間というものをよく知っていた。刑事なんて過酷な仕事を長年続けられるだけの強さがあったのだ。

 KKなら。

 幼い子供の霊が、マレビトに襲われ、吸収されようとしているのを見たら?


 ――いまならまだ助けられる!


 座敷牢に閉じ込められた魂たちを見て、あの夜彼はそう言った。

 だから暁人は、利口な自分を投げ捨てた。

「はぁっ…!」

 なけなしのエーテルショットを放ち、迫りくる影法師たちに応戦する。

 逃げている間に、エーテルも御札もかなり消費してしまった。正直苦しい。だがここで倒さなければ同じ轍を踏むだけだ。

『休んでいてくれて構わないが』

「うるさい…!」

 悠々と棒を振るう祟り屋の棒術使いに吐き捨てる。

 影法師の群れに追い詰められ、殴られて倒れ伏した暁人の前に、この男は突然に現れた。瞬きをしたら、そこにいたのだ。そして徐に影法師たちを嬲り始めた。強い、としか言えない鮮やかさだった。

 気味が悪い。どうして助けるような真似をするのか。先だって、暁人の部屋に現れた時もそうだった。思惑が見えない。

 だが今は、とにかく敵を倒さなくては。暁人は必死でショットを撃ち、走り回り、僅かなエーテル結晶体で補給をしながら、息を荒げて影法師たちと戦った。泥臭くてみっともない、なりふり構わない戦い方だった。

 やがて空き地は静かになり、きらめくエーテルは全て暁人に吸い込まれていった。

「もう大丈夫だよ」

 地面に膝をつき、汗だくのひどい顔で微笑む。少女は半べそをかきながら暁人にしがみついた。触ることはできないが、気持ちだけでもと暁人はその小さな背中を撫でてあげた。

『ふむ。無事でなによりだ』

 どこまでも水を差してくる。顔をしかめて見上げれば、棒術使いはすぐ側で暁人を見下ろしていた。息ひとつ乱れていない。祟り屋も能力者だとKKは言っていたが、この棒術使いはこと戦闘技能に優れているようだ。この余裕の差が歯がゆい。

「…どういうつもりだ」

 祟り屋が現れた日から、彼らは時折接触してくるようになった。どれも他愛ない程度ではあったが、暁人は極力かかわりを持たないよう努めていた。

 彼らは通常の人間とは違う。

 何より恐ろしいのは、その倫理観だ。

『どうとは?』

「助けてほしいと言った覚えはない」

『確かに、聞いた覚えは無いな』

 祟り屋は金銭と引き換えに、人を祟る。人を苦しめ、時には死に至らせるのだ。

 彼らに関するKKの調査資料は、多くは謎のままで終わっていた。だがKKが濁していた文章の意味はおのずと察せられる。彼らに祟られたチームは消えた。そして、祟りを依頼した人間も消えた。死体さえ無く、不気味なシミだけを残して。

 悍ましい事件だった。

『こちらの事情で動いただけだ。気にするな』

 こちら、ということは、この棒術使いの独断ではないということか。ますます魂胆がわからない。

「…なら、もう話す必要は無いな。それじゃあ」

 震える脚を叱咤して立ち上がる。行こう、と少女を促し歩き出した。

『だが』

 平坦な声が暁人の脚を引き留めた。

『手出しをしなかったら君は死んでいたな』

「だったらなんだ。あんたらには関係ない」

 即座に切り返す。彼らの言葉に合わせてはいけない。押されてはいけないと、半ば本能で感じる。

 しかしそれに対する返事は無かった。妙に思ったが、これ幸いと動き出そうとした瞬間に、ひやりとした感触が右手に伝う。

「―――っ!」

 ぞっとした。いつの間にか、棒術使いは暁人の真後ろに立っていた。触れているのは、彼の手だ。金縛りに遭ったかのように体が硬直する。背後からとてつもない冷気が漂うような錯覚さえした。

『確かに関係は無いが』

 後頭部の少し上あたりから声が落ちてくる。彼らは揃って暁人よりも上背がある。まるでそういう人形のように似通った体格をしていて、奇妙だ。

 棒術使いが、暁人の右手に何かを握らせた。暁人は歯を食いしばって緊張と寒気に耐える。

『もし、だ。少しでも譲ってくれる気持ちがあるのなら、これを持っていてくれ』

 嫌な言い方だ。

 すっと手が離れる。背中に感じていた冷気が消える。

 振り返ると、もうそこには誰もいなかった。

(おにいちゃん、大丈夫?)

 ハッと我に返る。

「…大丈夫だよ。行こう」

 少女に微笑み、再び歩き出す。いま暁人にとって大事なのはこの子だ。右手の中にあるものは、努めて意識から追い出すようにした。

 だがさっさと捨てることができないのも、また事実だった。


 ○


 交通事故の現場で失くしたというキーホルダーを一緒に探して、少女の家へ届けた。

 汚れ切って、少女の血が染みついたキーホルダー。少女の両親はそれを見るなりむせび泣いた。

(おにいちゃん、ありがとう)

 少女は泣き崩れる両親に抱き着いて、暁人がその場を去るまで、ずっとそのままでいた。

「……疲れたな…」

 前日の仕事帰りに少女を見つけてから、既に十時間以上が経過していた。日付はとっくに越えて、勤め人が出勤する時間帯だ。職場には休みの連絡を入れたが、シャツもスーツもヨレヨレで、昨夜から何も食べていない。

 出勤する人の流れに逆らって歩いていると、自分がとんでもなくズレた場所にいる気がした。

 体は重い疲労で強張っているが、頭はかえって冴えていた。

 心を占めているのは、諦念だ。

 きっとこれから、暁人は同じことを繰り返すだろう。

 苦しむ幽霊の姿を見つけたら、話しかけてしまうだろう。マレビトが襲ってきても、見捨てられないのだろう。誰にも理解されない行いだとしても、見て見ぬふりはもう、できない。

 何の見返りも無い。誰の目にも留まらない。理解者は数人といない。相談だって気軽にできない。

 幽霊が視える人は、もしかしたら他にもいるかもしれない。

 だが、エーテルの力を使い、マレビトを退治できるのはおそらく暁人だけだ。

 暁人は覚束ない足取りで朝の街を歩き、やがて自宅に帰り着いた。ひんやりとした静かな部屋に入ると、体の力が抜けた。

 青く透き通った幽霊の姿。エーテルのきらめき。マレビトの不気味な姿と、耳障りな声、無機質な殺意。生きている人と、死んでしまった人との隔たり。

 あの夜に知った非現実的な世界が、冷水のように暁人の全身を打つ。そして、足元からじわじわと浸されていくような気がした。暁人は顔を覆った。今はとても、穏やかでいられない。

 この広い東京で、たったひとり。

 常人には理解されない世界を視続けながら、生きていかなければいけない。

「KKぇ…」

 喉の奥から、かつての相棒を呼んだ。

 もう眠ってしまったひと。

 暁人と出会う前、生前のKKも、こんな気持ちだったのだろうか。たったひとり、「バケモノ」のような力を得てしまった男。そのやるせなさと孤独は、まさにこんな。

 あの夜、暁人とKKは二人でひとつで、だからこそ完璧だった。

 二人だったから、どんなマレビトも、痩術鬼も猫多羅も槌蜘蛛も、般若面の男も打ち倒せたのだ。

 けれど十年経って、暁人はひとりだ。

「…………」

 ふと、スラックスのポケットに入れたものを思い出した。あの不気味な祟り屋のひとり、棒術使いに持たされたものだ。少女を助けるため、確かめもせず意識の外に追いやっていた。

 取り出したものを見て、暁人は渇いた笑いを漏らした。

 糸だった。

 小さな木枠に巻かれた糸。血で染めたような、ムラのある暗い赤色をしていた。

 思い出すのはあの、陰鬱とした世界。怪異・槌蜘蛛の怨みと、祟り屋の祟りによって生み出された深遠な祟り場。KKと二人で、彷徨いながらどこまでも降りていった。

 あの世界で手に入れた幽界の糸とは違う。あれは純粋な霊力を宿した清い糸だった。

 けれどこれは、違う。

 人を祟る彼らの手で紡がれた、穢れた糸だ。

 こんなものを持っていろなんて。

「…最悪だ」

 暁人は小さく吐き捨て、テーブルに糸を放り投げる。おそらく、焼いても捨てても無駄だろう。きっとこれは暁人から離れない。

 ふらふらと立ち上がって、暁人は体を休めるために緩慢に動き出す。部屋の隅に、箱から引っ張り出した青いファイルが置きっぱなしだった。彼らを知るために開いた調査資料。また苦々しい気持ちになる。

 誰より信頼した相棒はもういない。エドは理解者であるが、能力者ではない。


 彼らと縁を結ぶだなんて、悪い夢のような話だった。


懸魚

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