【GWT】【K暁】望まで少し


 二十五日の夜は満月だった。

 いや実際には月齢十二・一で望月ではなかったのだが、見た目にはほぼ円かに見えた。

「月見そばでも食べようか」

 暁人の言葉に、KKは暁人の顔と、それから視線を追って空を見上げ、小さく笑った。

 ここから一番近い蕎麦の店、を検索しようとする暁人を置いて、KKはさっさと歩き出す。

「え、どこ行くの?」

「蕎麦屋だろ」

「近い店わかるの?」

「何年、渋谷を駆け回ってると思ってんだよ」

 それと、と思い出したようにKKは振り向いた。

「これから夕飯だから連絡してくんなって、凛子に言っとけ」

「自分で言えよな」

 そうして、また雑踏の中を先に行ってしまう。その背を眺めてため息をつき、暁人は凛子にメッセージを送った。――これから休憩を取ります。

 凛子からは「OK」というスタンプだけが返ってきた。次いで送られてきたメッセージはエドのものだ。

『寒い中、外での作業を任せてしまい申し訳ない。休憩はゆっくり取ってくれ。今夜はずっと晴れの予報だから、急ぐ必要は無いだろう。せめてアジトは暖かくしておくよ』

 暁人は白い息を吐き、もう一度空を見上げた。冬の空気に満ちた濃紺の空に、真っ黄色な月が浮かんでいる。あれが卵の黄身だったら、きっととろりとして美味しいだろう。

 あの夏の夜の月とは大違いだ。

 薄赤く、不気味に霞んだあの月は、暁人の脳裏に今も薄く貼り付いている。



 濛々と、出汁の香りの湯気が立つ。丼を両手で包むと、じんと出来立ての熱さが掌を温めた。透き通ったつゆに、つるりとした二八そば。ざく切りの葱。新鮮なわかめ。そしてふわふわとした白身と、中央に落とされた卵の黄身。

「いただきます!」

 暁人は喜色満面に手を合わせた。カウンター席の隣に座る中年は、食前の挨拶もおざなりにさっそく麺を啜っている。エドがゆっくりとしていいと言ってくれたのだから、もう少し味わって食べればいいのに。それとも蕎麦は早食いするものという習慣が染みついているのだろうか。

 代山神社の南側、道路の向かい、少し奥まった場所にある小さな蕎麦屋。

 追憶製法、樹海そば。

 渋谷の街ではしばしば看板を見かけるこの蕎麦屋は、KKの行きつけでもあるそうだ。

「空いた時間にさっと食えるのがいいんだよ」

 不精髭の生えた頬をもぐもぐと膨らませつつ、KKはそう語る。その顔はちょっとかわいいな、と思いつつ、暁人も頷いた。

「ご飯はゆっくり食べた方がいいと思うけどね」

「けど、オマエも最近は早食いじゃねぇか」

「そうなっちゃったんだよ…」

 暁人の属するチーム『ゴーストワイヤー』が対峙するのは、超常現象や怪異、妖怪、幽霊といった超自然的な霊威だ。一般的にはオカルトと言われ、白眼視されがちではあるのだが、意外なことに依頼は次々舞い込んでくる。

 チームの司令塔である凛子は、海外の有名投資家から援助を受けられる程度には名の知れた科学者だ。いくら賑々しい喧噪や眩いネオンが溢れていようとも、この東京の暗所に蟠る怪異を彼女は見過ごさない。

 加えて、ふるまいに難はあるが、間違いなく優れた頭脳を持つエドもいる。彼らが東京に張り巡らせた情報網は、暁人たちのような人間を必要とする手を、余すことなく拾い上げる。

 そういう訳で、多忙なのだ。

「昨日なんか、お腹減りすぎておにぎり食べてたら、後ろから鉈女に斬りかかられたんだよ」

「おい初耳だぞ。背中見せろ背中」

「ちょっと、やめろよ!見ればわかるだろ大丈夫だったよ!」

 食べるのを中断してまでわさわさと背中をまさぐってくる。適合者はある程度マレビトの気配を察することができるし、奴らは皆、常に不協和音のような声を発している。間一髪で気付いてガードし、事なきを得たのだ。

 KKの手を払って、麺を啜る。葱のしゃきしゃきとした食感にわかめの風味、つゆの旨味、そして香りの良い蕎麦。安心する味だ。

 昨日、二十四日はクリスマスイブ。その夜を、暁人は妹の麻里と穏やかに過ごした。ささやかだがチキンとケーキを用意して、一緒にテレビで映画を見て、これもささやかにプレゼントを渡し合った。両親の喪失はまだそこにあるが、兄妹二人という家族の形が、ようやく馴染んできている気がした。

 だが昼間はといえば、本当に大変だったのだ。凛子の要請でマレビトの発生に対処して、鬼や木霊からのSOSに応えて、急ぎの依頼で悪霊を祓って回った。『ゴーストワイヤー』での仕事が板につき、KKがいなくても仕事を任せられるようになったのは嬉しい。だが少々しんどいのも確かだ。

「オマエと出会うまでのオレの気持ちがわかったか?」

「もう充分にね」

「まだ早いぞ。飯食ってる最中に電話が鳴ってからが本番だ」

「…凛子さんにはちゃんと連絡したよ」

「チッ、凛子の奴、貴重な新人には甘いな」

 ぷつ、とKKの箸が卵を割る。とろりと流れる黄色はやはりおいしそうだ。

「…それにしても、久しぶりだね、月の観測」

「ああ。どういう調査だか知らねぇが、遠慮なく人を使ってくれるぜ」

 またずずっと麺を頬張り、KKは不服そうにもぐもぐした。

 今日、恋人たちの祝日であるクリスマスは、勤め人にとっては普通に平日である。暁人たちも例に漏れず、エドの指示を受けてイルミネーションに彩られた街を駆け回っていた。

 カップルたちを妬んでデートスポットに集ってきた悪霊たちを浄化し、その怨念で湧き出てきたマレビトたちを退治し、穢れを取り除き、告白できなかった後悔で彷徨う浮遊霊を回収した。

 そしてあっという間に一日は過ぎて、午後九時頃。取引先でもある代山神社で追加の形代を受け取り、神社の北口にいる猫又に新たな収集品を渡したところで、追加の指示がきたのだ。

『すまないが、急ぎで月の観測データが欲しい。気になることがあってね。だがあの時の同じように高い所からの観測は今の渋谷では人目につくだろう。月の全体が見えれば地上からでも構わないから、データを取ってくれないか』

 KKは悪態をついていた。もちろん返事は無かったが。

 そうはいっても、ここは雑居ビルの群れなす東京だ。手っ取り早く月が観察できるのは、やはり高い場所に限られる。早く終わらせたい暁人とKKは寒風に耐えつつ、天狗を呼んであちこちの屋上に上っていたのだ。

 そのさなかに、暁人は、あの夏の夜のKKの言をふと思い出した。



 渋谷があの世の霧に覆われた夜は、満月だった。

 月はやはり眩かったが、変に赤く見えた。公衆電話越しのエドの依頼により、暁人は429やFUKIDASUビルの屋上へとせっせと上り、月を観測した。無事にデータの転送を終えた後、暁人はKKに問うた。あの月がどう見えるかと。

 ――月見そばの卵ってところだな。

 KKはそう答えた。…本当に?

 あの朱い月が?

 結局小さな違和感だけに留めて、追及することはなかった。あの切迫した状況においては大した問題ではなかった。けれど、あれから季節が巡ってこうして冬の月を見上げるに至るまで、噛み砕くことができないままぽつんと残っているのも事実だ。

 暁人は半死半生だった。半分は生きていて、そして半分死にかけた部分を、亡霊であったKKが補っていた。

『生きながらにしてあちら側と接続されている』

 空恐ろしい声が思い返された。植物状態の麻里を見て、般若面の男が口にした言葉だ。

 狂った科学者の考えは分からない。彼が為そうとしていた儀式の全貌も、暁人には理解できないままだ。だが事故で重傷を負い、そこに亡霊が入り込んだ暁人にも、同じことが言えたのではないか。

 あちら側、死の世界。

 亡霊だったKKの目には、違うように視えていたのかもしれない。

 …彼が適当を言っていなければの話だが。



「おい、疲れたか」

 KKの声にハッとする。見れば、KKが暁人の顔を覗き込んでいた。カウンター席の隣だから、そうすると顔が近くなってびっくりする。KKはもうつゆまで飲み干していて、湯呑をぷらぷらと揺らしていた。

「心ここにあらずか?」

「…考え事してただけ」

 ちょっとからかってくるのを流して、卵を割る。おいしそうな黄色。

 いま、二人の見る景色は同じだと、一分の違いも無いのだと、そう信じたい気持ちだった。



 月の観測は滞りなく終わった。

 二十五日も零時間際となれば、さすがに人出は少なくなる。そういったところに出てくるのが妖怪やマレビトだが、昨日のうちに頑張ったおかげか、疲労困憊の様相を呈した影法師を数体蹴散らすだけで済んだ。どことなく哀愁が漂う。

「あーあ、せっかくのクリスマスだってのによ。オマエも不憫だな」

「昨日のうちに麻里とクリパしたからいいんだよ」

「欲がねぇよなぁ。若いんだからもう少し欲張れ」

「こういう時ばっかおじさん風吹かすなよ」

 誰もいない街路を二人で歩きながら、そんなことを言い合う。

 断言できるが、暁人は今この瞬間だって、結構しあわせだった。親しくて大事な人がただ側にいてくれることが、どれだけありがたいか。もう身に沁みて知っているのだ。

 例えばドラマで語られるような、ロマンチックなデートをしてプレゼントを渡し合うようなクリスマスでなくて、何が問題だろう。

 この後はアジトに戻り、報告をして…帰宅して寝るのだろう。二人とも体は冷えて疲れ切っている。とりあえずは休んだ方がいい。特別なことを期待する気持ちが無い訳ではない。だがいかんせん今の二人は体力が尽きていた。

 代山神社付近からアジトへはすぐだ。月並禁足地の側を抜け、大通りを道なりに行き、ホテル街に入れば間もなく着く距離。走れば十分もかからない。

「………なあ」

「なに」

「つかれたな」

「うん」

 二人とも同じ。――オレが困ってる時はオマエも困ってるんだぞ。そんなこともあの日言っていた。一人の体につき魂はひとつ。当たり前だ。けれど、悪くなかったなと思う。

 暁人はKKが好きなのだ。それはもう、自分でもすぐには届かない、魂の奥深くから希求するくらいには。その衝動は明らかに二心同体であった影響によるものなのだが、しかし今更、互いの魂を知らないふりはできない。

「ねぇ」

「ああ」

「このままフケるのって、どう?」

 KKは歩みを止めた。こちらを見るその顔は、滅多に見れない驚きの表情だ。KKはなんだかんだいっても元刑事で、状況の把握と思考の切り替えが早いので、素直に驚くことは珍しい。

「…オマエがそういうこと言うとはな。今更、知らないこともあるもんだ」

「当たり前だろ。人のことなんでも知ってたら気持ち悪いよ」

「それもそうだ」

 どれほど親しくても、親兄弟でも親友でも恋人でも、互いに知らない部分はある。当然だ。それが個々の人間が付き合うということだ。そして人間は、画面上の情報の集合体ではないのだ。その人を知るというのは、情報を記憶するのとは違う。

「KKの部屋に行ってもいい?」

 僕はいま、そう思ってる。

 KKはどう思う?

 彼がソワソワしているとか、胸を熱くしているとか、そんな些細なことも今はわからないのだ。だから知りたいし、教えてほしい。

 同じところに立っていて、同じものを見て、欲を言えば同じことを感じていると信じたい。

 KKは相好を崩した。指先が唇の端を撫でていた。煙草を吸いたそうな仕草に見えた。

「…言い訳はオマエがしろよ」

 二十五日のこの夜に、真剣に画面に向き合って、アジトを暖めて待っていてくれているチームの仲間に。

「ちょっといやだけど、…なんとかうまく言うよ」

「これでオマエも悪い子だな」

 凛子の呆れ顔が浮かぶぜ、と機嫌良さそうにKKは笑う。

「僕はKKほど態度悪くないから」

「おい、そこで裏切るなよ」

 アジトへ向かっていた足を、KKの住むアパートの方角へ切り替える。さっきまでと同じように、他愛も無い話をしながら歩きだす。日付は既に越えていた。だから急ぐこともない。逸る必要もない。

 夜空を見れば、煌々と照る月がある。円かには少しだけ至らない。けれどあと二日もすればきっと望になる。

 ――あの月はどう見える?

 そう聞いてみようかとも思ったが、やめた。

 きっと、さっき食っただろ、と返ってくる。そう予想ができて、暁人はおかしくなった。

懸魚

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