【GWT】【K暁】魚の心

 どうしようかな。

 暁人は悩んでいた。食器を洗いながら、自分の手や皿の表面を流れていく水を眺める。

「お兄ちゃん、先にお風呂入るね」

「ああ」

 顔を上げないまま返事をすると、ひょっと妹の麻里の顔が視界に入ってきた。

「…またなにか悩んでるの?」

「ん、…大したことじゃない」

 麻里の眉がむっとしかめられたので、慌てて付け加える。

「なんというかまだ…整理がついてないんだよ。落ち着いたら話す」

「そう言って、前は結局話してくれなかったじゃない。お兄ちゃんがひとりで整理したらろくなことないのに」

「言ってくれるなぁ」

 妹の言葉には弱い。ため息をついて、妥協点を探った。主に自分が折れる方向で。

「…じゃあ、一晩だけ待ってくれよ。明日には話す」

「絶対ね」

 麻里の表情が緩み、足取りも軽く浴室へ入っていく。

 さて、しばらく悩むつもりでいた宿題に提出期限がついてしまった。それも明日だ。

 せめてちゃんと話せるように、自分の中での整理をしなければ。


 *


 昨日のことだ。じっとりした雨天だった。

 暁人の相棒兼師匠であるKKは、あまり傘を差さない。理由はよく知っている。暁人も同じ理由で傘を避け、KKと同じ格好をして、夕暮れの渋谷の街へ繰り出した。揃ってフードを目深に被り、足早に街路を抜ける二人組はさぞ怪しく見えるだろう。自分のことながら、暁人は少しおかしかった。自分はともかく、KKなんか元警官なのだ。

「うー、やっぱ冷えるな。くそ、これだから雨は嫌いなんだよ」

「天気に怒っても仕方ないだろ。帰りに銭湯でも寄る?」

「銭湯にもいい思い出は無いが、風邪っ引きよりマシか」

 霊能力者である二人の仕事は、怪異への対処だ。

 今回の現場は河童ヶ池だった。東京中に秘密裏に観測機器を設置しているエドから、ここ最近エーテル濃度が上昇傾向にあるとかで調査に出されたのだ。凛子からいくつかの補足情報も託され、二人は肌寒い初夏の雨夜に、木立のざわめく池に赴いた。

「ガレージに暖房器具とかあったかな」

「どうだったかな。せめて替えの服かタオルさえあればな」

「ガレージまで私物化するなよ」

 河童ヶ池はひっそりとして、雨天でも水面に灯篭が揺らめいていた。いつ来てもきれいな場所だが、人影が全く見当たらないのは、天気と時間帯のせいだろうか。それとも、水際に点々と生じている穢れのせいか。

 エドが予測したとおり、池には穢れが育ち始めていた。葦や菖蒲のように水中に根を張った穢れを、暁人とKKは二人がかりで浄化していく。邪魔をするように木立に紛れ現れたマレビト〈影法師〉たちも手早く祓い除ける。二人は今や『ゴーストワイヤー』のエースだ。池がきれいになるまでに、十分とかからなかった。

「これで終わりか?ぬるくて欠伸が出るぜ」

 KKはそう言って欠伸をしていた。彼の顔にはもう「銭湯」と書いてあって、暁人は笑ってしまった。とりあえずは池を一周してみて、特に異常が見当たらなければそれで業務終了だ。

 河童ヶ池の一角には、厄除地蔵尊が奉祀されている。あの夜から、暁人は街中で地蔵尊を見かけるたび、手を合わせることにしている。渋谷には案外と多くの地蔵尊が祀られているのだ。あの夜、暁人はそのことに初めて気づいた。

「相変わらず信心深いな」

「お世話になったからね」

 お地蔵様に手を合わせてお堂を出た暁人は、ふと池に目を留めた。ちょうど地蔵尊の後ろあたり、池の中に何かが刺さっている。

 傘だ。

 妙な予感がして霊視をしてみれば、パキリと音がして傘の根元にコアが現れる。そこで初めて、池の中に広がる穢れに気が付いた。突き立てられた傘を中心として、水底にヘドロのように穢れが沈んでいるのだ。

「KK」

「あ?…水の中かよ、めんどくせぇな」

 終わったと思った仕事が終わっていなかったKKはものすごく面倒臭そうだった。

 いつも通りエーテルショットを放ってみるが、風の弾丸は水面を少し穿っただけで、到底コアには届かなかった。ならばと二人がかりで風のチャージラッシュを撃ち込んでみても、水は保護膜のように衝撃を呑み込み、コアを包み込んでしまう。

 迂闊に穢れに触れると、魂が侵され体に痛みとして現れる。悩む暁人を一蹴するように、KKは言った。

「任せろ」

 そして暁人が返事をする間もなく、KKは助走をつけ、一息にコアのもとまで跳んだ。その勢いのまま、叩き潰すように力任せにコアを破壊する。穢れはKKの魂を蝕む間もなく、呆気にとられる暁人の前で光の粒子となって消滅した。

「無茶苦茶するなぁ」

「たまにはこれくらい強引な方が上手くいくもんだ。覚えとけ」

 おかげでずぶ濡れだけどな、とKKは腰まで水に浸かりながら肩を竦めていた。

 暁人は苦笑しつつ、KKに続いて池に入る。この相棒は時折、暁人が思いつかないような突拍子もないことをする。それはジェネレーションギャップとか、経験の差とか、性格の違いだとか、暁人に無い、暁人の知らない部分からくる発想だ。愚直ででたらめに見える行動が、見事に乱麻を断つ様は、沸き立つような快ささえあった。

「その傘、大丈夫?」

「ああ。なんてことない、ガラクタだ」

 KKは傘を引き抜いて調べていた。少し錆び付いた、普通のビニール傘だ。誰かがイタズラで刺したか投げ込んだかで、これが穢れの原因とは思われない。

「ったく、仮にも神域だぞ。こんなことしたらバチがあたる。河童もお怒りかもな」

「そうかもね。…ん?」

 水の中を調べていた暁人は、一枚の紙片を掬い上げた。大きさからして、学生の暁人には馴染み深いルーズリーフだ。書かれた文字は滲み切って、すっかり判別不能になっていた。

 足元を見下ろしてみれば、コアのあったあたりに、何枚かの紙片が沈んでいた。

「紙……?」

 おそらく、同じくルーズリーフやノートの切れ端、メモ用紙などだ。訝しむ暁人の脳裏に、凛子からの提供情報が浮かんだ。河童ヶ池にまつわる伝承、事件、そして噂。

 そうだ、相合傘だ。

「あ?…おい、馬鹿、捨てろ!」

 振り返ったKKの声が鋭く飛ぶ。だが手を放す間もなく、濡れそぼったルーズリーフからどろりと穢れが溢れ、景色が闇に呑まれた。


 本当にささいな噂話だった。

 凛子から提供された情報の中で、暁人も読み流していたくらいの短い文章。

 ――恋にまつわるおまじない。

 ――相合傘を書いた紙を、誰にも見られないように河童ヶ池に浮かべる。

 ――なるべく池の真ん中の方で紙が沈めば、恋が叶う可能性あり。

 誰でも知っている、一度は書いたことがある、取るに足らない恋のおまじない。

 だからこそ無邪気に実行できて、さしたる害も悪意もなく、誰も取り沙汰しないまま少しずつ水底に嵩んでいく。

 そうして集積した紙切れが穢れ、歪んだ空間を生み出すまでになると、一体どこの誰が危惧できただろう。KKは状況を把握すると、やれやれと呆れて頭を掻いていた。

「相合傘のおまじない、ね。聞き覚えはあるか?」

「いや、ないな。少なくとも大学では聞いたことない」

「ま、オマエは書く側じゃなくて書かれる側だろうしな」

 もう何度目か。果てしなく広がる水面、どこともしれない曇天、打ち棄てられた構造物によって囲われた結界の中に、二人は立っていた。空間ウテナ。あの般若面の男や、エドたちはそう呼んでいた。穢れの蓄積によって生まれる異空間だ。

 足元には水面を埋め尽くすほどの紙片が漂い、動くたびに足にまとわりついた。少年少女たちが河童ヶ池に流したであろう相合傘だ。視界を上げれば、結界の上空には無数の傘が浮かんでいる。色とりどりの傘も、この空間にあってはうら寂しく不気味に見える。

「さぁて、お楽しみだぜ。少しはやりがいのある仕事で嬉しいぜ」

「戦わなくていいのが一番だけどね」

 暁人とKKを出迎えたのは喜奇童子と照法師だった。大人数で攻めてくる首無し女子高生と、代わる代わる飛来して火の玉を飛ばす首吊り。なかなか厄介な組み合わせだったといえる。さすがの暁人とKKも楽勝とはいかなかった。

 だがあえて言うならば、快勝だった。

 KKと二人で戦えば、怖いものなどない。

 暁人は本気で、心の底からそう思っている。妄信ではなく信頼だ。KKと呼吸を合わせ戦う時、暁人の心は高揚に燃え、踊る。強いアルコールを飲み下したように、胸がかっかと熱くなる。そんな瞬間など他に無かった。

 暁人が照法師らの、KKが喜奇童子らのコアを、まとめて引き抜く。マレビトたちが消滅し、辺りが静かになると、頭上の傘は力尽きたように一斉に落下した。骨は折れ生地は破れ、見るも無残に壊れ果てて、消える。

 同時に、足元の紙片がガタガタと震え始めたかと思うと、書かれていた文字が飛び散るように紙を離れ、空間内をでたらめに飛び交いだす。まるで羽虫の大群のようで気味が悪い。これが全て誰かの名前だと思えばなおさらだ。

「こりゃ、ガキのおまじないだってバカにできねえな」

 KKが唸った。無邪気な恋の願いが蓄積し、澱み、濁ったらこうなるのだ。そもそも水は情念が溜まりやすい。いつか入った銭湯でも同様のことがあった。水が堰き止められ、澱み、穢れを生んで場の空間までもを歪めていた。

「僕が祓うよ」

 暁人はおまじないを祓うべく、右手を上げた。

 だが唐突に目の前に現れた文字に、手が止まった。飛び交っていた文字の一部が集まり、暁人の眼前で名前を形作ったのだ。


 伊月暁人


「え…?」

 すぐに反応できなかった。

「暁人!」

 名前がぐにゃりと歪み、空間に渦ができた。抵抗する間もなく、暁人は渦に呑みこまれていく。

 背中を掠めたのは、きっとKKが伸ばしてくれた手だった。


 *


 妹の後で風呂につかりながら、一度回想をやめる。温かさにほっと力を抜いた。

 結果から言うと、昨日は無事に仕事を終えて、KKと銭湯に行くことができた。

 マレビトとの戦闘もあり、いろいろあって疲れた後だったから、全身を包むお湯に体が痺れてとろけそうだった。KKはおっさん臭く「あーー」と呻いて、ぐしぐし顔を拭っていた。

 体を温めながら他愛もない話をして、風呂上りには瓶の牛乳を飲んだ。一気飲みしてぷはぁ、と息を吐くところまで揃ったものだから、湯で上気した顔を見合わせて笑い転げた。

 仲の良い叔父さん、がいたらこんな感じだったかもな、と暁人は思う。あくまで想像だが。それくらい近しい相手だということだ。違う部分や知らないことも山ほどあるが、KKは暁人にとって恩人で、先達で、大事な相棒だ。

 あの夜が明け互いに個々の体を持つ今、暁人とKKに対外的な繋がりは無い。

 だが暁人は、KKの荒涼とした生き方と、本人さえ自覚していなかった絶望と、絶えない正義感を知っている。そしてKKも、暁人の弱さと、寂しさと、情けなさを知っている。

 ここまで知り合えた相手が彼の他にどこにいる?

 傍にKKがいることが、既に暁人の当たり前なのだ。

 だが説明がしづらいので、稀に暁人の友人と鉢合った時などは「叔父さん」と紹介している。顔は全く似ていないが、今まで疑われたことはない。

 お風呂の湯を掬う。

 あの夜、穢れが発生していた銭湯は結局潰れてしまった。元々立地が良くなかったようであるし、良い流れを作るような工夫も無かった。昨日KKと行ったのは、また別の場所にある銭湯だ。

「ゆく川の流れは絶えずして…」

 無意識に呟く。KKが教えてくれた言葉だ。水は流れるが常。同じように物事は常に変わっていく。

 では、変わらないものは無いのか。ずっとそこにあってくれるものというのは。それは停滞であり、良くないものなのか。流れることこそ、変わることこそ清浄で、家族も、信頼も、大事なひとも……。

 ぶくぶくと湯の中で泡を吐く。そろそろ上がった方が良さそうだ。


 *


 そこは真っ暗な空間だった。

 水面に浮かぶ灯篭が、ぽつりぽつりとどこまでも漂っていた。金色の小さな魚たちが、光の粒を落としながら宙を泳ぎ、儚く消えてはまた現れる。遥か頭上からは、雨が水面を叩く音が微かにくぐもって聞こえた。

(伊月くん)

 暁人の目の前にいたのは、女性の霊体だった。

 霊体は目鼻立ちが判然としないが、暁人はすぐに彼女が誰だかわかった。毎日のように顔を合わせている、隣のゼミの同期生だったからだ。

(ほんとに伊月くん?え、嬉しいな…ふふ、ごめんねこんな格好で)

 こんな格好、というのはおそらくパジャマのことだ。明らかな異空間にも関わらず、周囲の状況を気にかける様子が無い。

(ね、偶然だね、こんなとこで。このあとどうするの?何か用事ある?)

 おそらく、彼女は生霊だ。

 彼女は確か、今週から体調を崩して講義を休んでいた。亡くなってはいない筈だ。今日だって、彼女の友人たちが様子を見に行こうかと話していたのを聞いたのだ。今ここにいる霊体は、高熱で臥せっている彼女の魂の一部なのだろう。彼女はぼんやりした様子で、けれど暁人を見て嬉しそうにしていた。

(伊月くん)

 一方の暁人は、ひどく苦しかった。体に重い負荷がかかっているようで、腕の動きひとつままならない。

 足元に紙片が落ちている。文字は判読できないが、彼女が書いた相合傘であることは明らかだ。彼女は、自分と暁人の名前を書き、河童ヶ池に沈めたのだ。ほんの出来心だったのか、それとも本気だったのか。彼女の心積もりはわからないが、そのささいなおまじないが穢れによって歪み、想い人である暁人を縛っているのだ。

(ね、行こ?)

 ひどい焦燥感だった。本名でおまじないをかけられてしまったからか、全く抵抗ができない。彼女が暁人の腕を引くと、いっそう息がしづらくなった。

 彼女の想いを感じるたび、胸が圧されるように苦しい。彼女は良い友人のひとりだ。だが想いを知ったからといって、暁人にはどうすることもできない。

「――さん、」

 苦しさに耐えつつ、喘ぐように名前を呼んだ。とにかく説得しようと思った。だがそれがよくなかった。彼女は見てわかるほどに喜色満面になり、同時にとうとう声を出せないくらいに苦しさがひどくなった。

 呼び返すのは、応えたと認識される。こと怪異だとか霊異だとかの世界では、ひとつの重要なルールであり、タブーだ。たとえ相手が友人でも、穢れと稚拙なおまじないに縛られ、正気でないことを念頭に置くべきだった。

(伊月くん、行こ)

 彼女の手に傘が現れる。そっと寄り添い、もがく暁人を傘の陰に入れようとした。

 正直、本当にまずい状況だった。

 だから、その傘を貫いた緑の閃光を見た時は、心の底から痺れるようだった。

「お楽しみのとこ悪いな。オジサンは空気が読めなくてよ」

 嘘のように圧迫感が消えて、動けるようになる。どうやってこの空間に降りてきたのか、背後から現れたKKは、どんと暁人の背中を叩いた。その手の強さが、暁人の全身を奮い立たせるようだった。

「KK…ごめん、油断した」

「なってねぇ、と言いたいところだが、名指しで呪われたんじゃ仕方ねぇな。オマエにはまだ早い」

「なんだよそれ…」

 突然に現れた男に、彼女はたじろいでいた。それはそうだ。場も忘れて、暁人は少し同情した。

(え、なに?だれ?伊月くん…)

 だいぶ年嵩の男だし、ふるまいがぶっきらぼうで柔らかさがない。つまりどっちかというと恐い。さらに、正真正銘の警察官だったから、息をするように威圧するし凄む。怯えられても仕方ない。なんかごめんうちの相棒が、とさえ言いたくなった。

 だが同じ轍は踏まない。暁人はただ口を閉ざした。罪悪感が胸を刺したが、KKは『いい判断だ』とでも言うように暁人の背を叩いてくれた。

(えと、誰……どなたですか?わたし、伊月くんと…)

「そうだな、オレは…」

 KKは霊の声を遮った。そもそも話をさせるつもりが無いようだ。KKはいつもとっつきにくいくらい無愛想だが、霊とか怪異相手にはこれくらい強硬な態度の方がいいのかもしれない。

 暁人は黙って、事の流れを見守る。歯がゆいが、呪われている身では大人しくしている他ない。KKの言葉に続くのは、「バイト先の上司」だとか格好つけて「師匠」だとか、はたまた「叔父」だとか、そのあたりだろうと自然に見当をつけていた。


「あんたの恋敵だ」


 だから本当にびっくりした。

 一瞬、なんて言ったかわからなくなるくらいに。

 KKは間髪入れずに御札を貼り、印を結んでいた。雨童や血童を即浄する時と同じ印で、KKの左手が柔らかく光を握ると、彼女も淡い光に包まれる。

(いづきくん…)

 戸惑い、暁人を呼びながら、彼女は解けるように消えた。

 足元に残った紙片は、KKの水のショットによってばらばらになる。晴れて体の自由を取り戻した暁人は、まだちょっと働かない頭でKKを見た。

「KK…?」

「さて、帰るぞ暁人」

 出かかっていた疑問は喉の奥に一旦押し込まれた。向き直ったKKがあまりに普通の調子だったからだ。だから暁人も追及はできず、代わりに違う疑問が出た。

「どうやって帰るの?」

「何言ってんだ」

 KKは軽く笑い飛ばして、暁人の背後を顎で示した。

 振り返れば、そこにはいつの間にか、古い木戸が立っている。水面の灯篭と、金色の魚が、導くように戸に集まっていた。

 戸には一対の青い提灯がかかっており、大きく『厄除地蔵尊』と。

「オマエ、何の為に欠かさず拝んでるんだよ」

「困った時に助けてもらうため…のつもりは無いんだけどね…」

 しとしとと、やはり雨粒の音が遠く聞こえる。ここは池の水底なのだ。

 木戸を開けると、果たしてそこは、河童ヶ池のお堂の前だった。


 *


 あの夜、穢れた霧に包まれた渋谷には、雨がよく降った。いちいち気にしてられなくて、傘も差さずに走り回っていたが、奇妙な雨だった。もしあの霧から落ちたものならば、微小ながらも穢れを含んでいたのだろう。

 その雨水が溜まった河童ヶ池には、霧の影響が色濃く残っていた。仮にも神域であるから自浄作用はあるようだが、時間はかかる。そこにひとつの情念が蓄積され、膿み、悪化して穢れを生んだ。傷と同じだ。事の次第はそういうことだ。

 例の友人は無事に快復したらしい。来週にでもまた顔を合わせるだろう。だが、水底でのことは覚えていないか、夢だと思っている筈だ。これから彼女がどのようなふるまいをしても、暁人の意思は変わらない。

「おやすみ」

「ああ、おやすみ」

 妹と就寝の挨拶を交わして、ベッドに潜る。

 もぞもぞと横臥して、スマホのメッセージアプリを開いた。KKとのトークルームは、昨日の夜、暁人のスタンプで終わっている。仕事の連絡に対する返事だ。それ以降、今日は用事が入っていて、KKとは話せなかった。

 暗闇の中で枕元を探る。いつも傍に置いている、KKからもらったお守り袋を握る。もう梅の香りはだいぶ薄くなってしまった。それが少し心許なく感じる。

 あの長い雨夜は明けた。それぞれの日常が戻り、日々は過ぎる。季節は変わるし、暁人も変わる。そしてKKも。――どのように?何が、どんな風に?否が応でも変わってしまうのだ。生きている限り。

 どのような方向で変わる?自分はどちらを向いている?KKは……。

 くそ、こんなにうだうだと悩んでしまうのも、KKがあんなことをしたからだ。


 *


 どうやって、あの水底に降りてきたのか。

 河童ヶ池を出て、すぐ横にある地下駐車場のガレージで休んでいる時、暁人は問いかけた。その時KKは、「あーまぁ適当にな」と白を切った。白の切り方も適当だ。仮にも元刑事が、もう少し上手く誤魔化せない筈がないだろう。

 アジトへ戻って報告を済ませて、それから銭湯に行った。存分に湯を堪能した後、暖簾をくぐって別れる、その直前のことだ。

「…あー、印を結ぶってのは立派なまじないだ、知ってるな」

「…え?…うん?急に何?知ってるけど」

 雨は上がっていた。火照った体に心地よく夜風を浴びていた暁人は、急な話題に戸惑うばかりだった。KKは手足をぶらつかせて、目的も無さそうに、自販機で飲み物を選ぶ素振りなんかしていた。

「オマエが引き込まれたのは、あの子が相合傘の印を書いて、オマエの名前を書いたからだ」

「…うん、そうだね」

 正直に言うと、友人から好意を寄せられるのは初めてではない。けれど、成人しても上手いやり方はわからない。友人のままを望むのも、残酷なのだろうか。

「で、だな。オレも印結びは得意だ」

「…そうだね?」

 ちょっと流れが変わったな、と思いながらKKを見る。暁人の視線に気づくと、KKはこちらに向き直って、何かを言いかけて、やめた。よほど慎重に言葉を選んでいるらしい。けれど結局は何も言わずに、ただポケットから紙切れを取り出した。

「………相合傘?」

 伊月暁人

 KK

 レシートの裏に、油性ペンで走り書きされた傘と名前。これ以上ないほどくしゃくしゃで、一度濡れたからか文字も滲んで、塵紙より酷い有様で。

 その他はわからなかった。ちょうど火のエーテルを消す時のように、KKが紙をぱんっと両手で挟んだのだ。開いた時には、光の粒子が零れただけで、紙は跡形もなく消えていた。

「…だから傘は嫌なんだ、くそ」

 幾分小さい声でKKは言い、くるりと背を向けて「じゃあな」と後ろ手を振った。

 暁人は今度こそ言葉を失って、しばらく暖簾の前に立ち尽くしていた。

 だから彼は、「恋敵」と名乗ったのだ。

 エーテルの量も技術も優れているKKなら、どんな陳腐なおまじないでも立派に作用したことだろう。暁人の友人のおまじないに割り込むための手段なら、堂々とそう言えばいいのに。

 一度は誤魔化して、だいぶ時間を空けて、種明かしの時もめちゃくちゃ言い淀んで。足早に帰ったりするから、後でわざわざ事務連絡もしなきゃいけなくなってて。それではまるで。


 *


 なんなんだよ、ほんとにもう!

 ぎゅうっと潰してしまうくらいお守り袋を握りしめて、暁人は悶絶した。

 相合傘。相合傘だ。いい歳した大人が。もう、離れて暮らす息子さんも大きくなっているくらいの、中年に入った男が。

 どんな顔して書いたの。穢れの原因が相合傘だからといって、自分まで相合傘を書く必要があったの。仮にあったとしたなら、堂々と、いつも通り飄々と、そう言ってくれよ。あの水底に行くための手段だったと。あの場にいたのが誰であっても。そうする必要があったんだと。

 なのに、何を、あんな照れてるような素振りを。

 暁人はシーツに潜って顔を押さえた。灯りを落とした自室で、誰も見やしないのに恥ずかしくてこそばゆくて仕方ない。これはあれか、共感性羞恥というやつだろうか。いい歳した中年男がティーンみたいなことを、と。

 おかげで昨日の夜は眠れたもんじゃなかった。疲れていたのに。銭湯で冷えも緊張も解かされて、何もなかったらきっと心地良く眠れていた筈なのに。

 ただの事務連絡にスタンプを返すのでさえ動悸がした。彼の言動が一体どういうものだったか、客観的に整理なんてできなくて、ただただ戸惑って悶えて明け方に寝落ちした。そのせいで今日は一日ぼんやりする羽目になったのだ。

 危うく、今夜も反芻して眠れなくなるところだったが、幸い妹が待ったをかけてくれた。妹に共有するために、整理をする時間が持てた。まだ完全に整ってはいないし思い返すとまんまと悶絶してしまうが、ある程度のまとめというか、自分なりの終着点は見えた気がする。

 ようやく羞恥の波が引いて、暁人は脱力しながら瞼を閉じた。

 瞼の裏に、水面に映るほのかな灯りが蘇る。

 凛子やエドが言っていた。あの夜穢された神域の主たちは、例外なく暁人に恩がある。

 だからだろうか。状況のせいで辺りを見る余裕もなかったが、河童ヶ池の水底は、心落ち着く場所だった。暗く静かで、微かに泡の音がして、優しい灯りが漂っていて。

 暗闇にひらりと金色の魚が舞い、暁人を眠りへつれていく。

 意識が夢に沈み、魚に導かれてゆっくりゆっくりと降りていく。そこはあの水底で、そして、KKがいた。会えたことが嬉しかった。KKは暇そうに、光の魚たちにちょいちょいとちょっかいをかけていて、沈んできた暁人に気付くと手を上げて笑った。

 そこで何を話したかはわからない。起きれば忘れる、夢の中の事だ。


 ――僕が水だろ。だって……。


 どういう文脈か、なぜかそんな返事をしたことだけは、覚えている。

 それも、カーテンを開けて差し込んだ朝日に溶けてしまった。



「お兄ちゃん、整理はできた?」

 提出期限は思ったよりかなり早かった。忙しない朝の食卓で、暁人は苦笑する。暁人の向かいで、妹の麻里はいかにも時間がなさそうに、せかせかと箸を動かしている。だが意識は兄から逸らさず、視線もできるだけキープしている。

「帰ってからじゃダメなのか?」

「じゃあ、結論だけ先に聞かせて?」

「なにがなんでも聞く気だな」

 もう少し待ってくれても、と心の中で肩を落とすが、どうせ期限は今日なのだ。いつ話しても内容は同じ。早めに話しておく方がせっつかれずに済む。

 暁人は卵焼きをもぐもぐしつつ、腹を決めた。水を飲んで、一息。

「なあ、麻里。オレさ、KKのことが気になるみたいなんだけど」



懸魚

ファンアート・二次創作を掲載しています。 NL・BL要素があります。 基本的に交流は控えております。 いつも魚っぽい名前をしています。 ※このサイトは非公式二次創作作品を主に掲載しております。 ※原作者・出版社及び、実際の人物や団体等とは一切関係ありません。 ※無断転載・複製・複写はおやめください。

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